田中憲司(仮名、裁判当時59歳)の父が亡くなったのは彼がまだ幼い時でした。その後は彼を含めた四人の子供たちを母は女手一つで育てました。そんな母について彼は裁判でこう話しています。
「すごく立派な人だったと思います。いろんなことを助けてくれて...感謝してもしきれません。兄弟の中では私が一番母と話す時間は多かったと思いますし、一番世話になってたと思います。母が大好きで、親孝行したいと思っていたのに...」
86歳で亡くなった母の遺体には身体中にアザが出来ていました。このアザは全て、母と同居して介護をしていた彼の暴行で出来たものでした。
彼は認知症で寝たきりの母親に対して掌やスリッパで叩く等の暴力を日常的に振るっていました。ある日、母親を叩いていたら動かなくなってしまい、救急車を呼んで病院に連れて行きましたが母は亡くなりました。彼の暴力と母の死に直接の因果関係はありませんでしたが暴力の事実が露見し、彼は傷害罪で逮捕、起訴されて裁判を受けていました。
「やめてやめて! 痛い! ごめんね。許して。ちゃんとするから許して」
彼に叩かれている間、母は怯えて泣きながら許しを乞うていたそうです。それでも彼は母を叩くその手を止めることが出来ませんでした。頭や腕を叩き続けました。
「母は歩くことはもちろん立つことさえ出来なくなっていて、自分が放ったらかしたら死んでしまうような状態でした。なのに認知症の進行もあって自分の言うことを聞いてくれなくて...そんなところを直してほしいという気持ちで手が出たんだと思います。憎くてやったわけじゃないです。なんでこんなことをしたんだろうと...当時は自分でもわからずショックでした」
そう話していた彼は、母に暴力をふるうたびに激しく後悔をしたそうです。彼自身、足を怪我した影響で思うような介護が出来なくなっていました。借金でまかなっていた介護費用の返済のことでストレスを溜め込んでもいました。彼一人での介護は限界でした。兄弟の協力もありましたが遠方に住んでいたため十分なものではありませんでした。
少しでも負担を減らすために週に何度かヘルパーを頼もうとしましたが、母は嫌がりました。
「憲司がいてくれるなら一緒にいたい」
「憲司にいてもらえばいい」
そう言われ、彼は一人での介護を続けていました。暴力を振るわれながらも、母は彼と一緒にいることを望んでいたのです。
日に日に母の認知症の症状は進行し、突然歌を歌いだしたりするなど奇行が増えていきました。妄想も見るようになっていたようです。
それでも時々は普段の、昔の母に戻ってくれる時がありました。そんな時、彼はベッドにいる母の隣で横になり、いろいろな話をしたそうです。
昔よく連れて行ってもらったお店のこと、自分が入院したときに母が毎日お見舞いに来てくれたこと、思い出話は尽きることがありませんでした。
「みんなで行った水道橋のトンカツ屋さん、いつかまたみんなで行きたいね。憲司も足治して、私も歩けるようにならなくちゃね。お互い頑張ろうね」
母の言葉を、母が話す絶対に来ることがないとわかっている『いつか』の話を、彼はどんな想いで聞いていたのでしょう。
「もし、またお母さんに会えるならどうしたいですか?」
被告人質問で弁護人に聞かれた彼はうつむきながら答えました。
「前に戻れるなら...笑ってほしい...。喜ぶようなものを作ってあげたいです。母が大好きだから親孝行しないと、って思ってたのに...悔やんでも悔やみきれないです」
母は亡くなる直前、彼のことをかばい、そして足の怪我のことや仕事のことを心配するような発言をしていたそうです。
今後、彼は大きな喪失感と罪悪感を背負って生きていくことになります。罪滅ぼしのために、そして彼自身のためにも、今後は健康を取り戻し自立した生活を歩んでいってくれることを願っています。それがきっと一番の弔いなのではないかと思います。(取材・文◎鈴木孔明)
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