「ディープ・スロート」の主演女優リンダ・ラブレイスの伝記が映画になった。3月1日から公開される「ラヴレース」だ。主演は映画版「レ・ミゼラブル」でコゼット役だったアマンダ・セイフライドというから、ちょっと驚かされる。あの子が「ディープ・スロート」をねぇ......。
「ディープ・スロート」という言葉を聞いても、ネット時代の今、反応する読者は少ないかもしれない。しかし50代以上の男性に「ディープ・スロート」という映画タイトルは特別の響きがある。なにしろそれは、アメリカで始めてメジャー公開されたハードコア・ポルノだからだ。ネット時代になり、無修正ポルノは珍しいものではなくなった。若い世代にとって、AVとはモザイクのかからない、セックスそのものをストレートに映した映像を意味するに違いない。しかし日本において無修正ポルノの氾濫が始まったのは「裏ビデオ」と呼ばれるビデオテープ商品が普及した80年代以降であり、およそ30年ほどの歴史しかない。しかも少なくとも00年代まで、日本のポルノの主流はモザイク修整入りのパッケージAVだった。
アメリカにおいても、無修正の映像が堂々と世の中に出回るようになったのは70年代に入ってだから、それほど長い歴史があるわけではない。第二次大戦が終わり、世界を解放的なムードが覆いはじめると、まずヨーロッパからポルノ解禁の動きが始まった。68年のデンマークを皮切りに、ノルウェー、西ドイツ、フランスと、70年までに西側諸国で続々とポルノが解禁された。
ところがアメリカはポルノ解禁には消極的で、68年、当時の大統領ジョンソンは「わいせつとポルノに関する諮問委員会」(Commission on Obscenity and Pornography ちなにみ日本ではこの委員会の報道から"ポルノ"という言葉が普及したようだ)を設置して、まずポルノの社会的影響を調査させるのである。70年に報告された結論は「ポルノの有害性は認められず、よってただちに解禁すべき」であったが、この時代の大統領、共和党のリチャード・ニクソンは報告書を認めず黙殺した。
しかし映画業界ではヨーロッパ・ポルノ上陸の影響もありポルノ解禁への熱は高く、72年、見切り発車の形で製作・公開されたのが「ディープ・スロート」だった。同作は空前のヒットとなり、以降、「グリーンドア(Behind the Green Door)」「ミス・ジョーンズの背徳(The Devil in Miss Jones)」といったハードコアポルノが続々と公開され、あっという間にハードコアポルノが全米を覆いつくすことになる。
「ディープ・スロート」はカラーの35ミリフィルムでポルノが撮られたという点で画期的であった(それまで白黒の8ミリ、16ミリで撮られたポルノはアングラで出回っていた)。しかしそれ以上に観客を驚かせたのは、主演のリンダ・ラブレイスが共演する男優の巨根を深々と根元までくわえ込んだ"妙技"だった。脚本ではリンダの喉の奥深く(すなわちDeep thrort)にクリトリスがあり、喉の奥を男根で刺激することで性的快感を得るという設定が書かれていたが、実際にくわえこむ技術はリンダ・ラブレイスが練習によって会得したものだった。
そしてそれは当時の夫...というかヒモが、リンダを性的商品として扱い、多くの買春客をとらせるために教え込んだ性奴隷のスキルだった。
リンダが「ディープ・スロート」に主演する前後、どんな苦難を味わったかは彼女の自伝「神の試練(Ordeal)」(邦訳『ディープ・スロートの日々』80年 徳間書店刊 絶版)に詳しく書かれている。同書は彼女がヒモと別れ二番目の夫と再婚し、フェミニズム運動に感化されポルノ糾弾のために書かれた本で、全米では反ポルノ、反DVのバイブルとなったが、性奴隷としての調教過程があまりに詳細でリアルだったため、日本ではノンフィクション・ポルノ読み物として売られた。版元の徳間書店は「アサヒ芸能」の出版社である。
同書にはヒモ氏は世界中を旅し「日本人から神秘的なセックスの技術を教わっていた」とある。リンダは、そのヒモ氏から喉の筋肉を緩める方法を教わり、Deep thrortを体得した。つまり、もしかするとその技術は日本人を経由して教わったものかもしれないのだ。70年前後の日本の性風俗状況を考えると、ソープランド(当時はトルコ風呂)が全国各地に普及し、東京都内では山手線各駅の駅前まで出店された時期である。
ソープランドの歴史はマットプレイとおスペ=フェラチオ技術の発達史でもあるから、あくまで仮説だが、ヒモ氏が日本の風俗で最初のDeep thrortを学んだ可能性もあるのだ。そして映画「ディープ・スロート」の妙技のせいで、アメリカではオーラル・セックスがブームとなり、普通の夫婦、恋人たちの夜の営みにまで普及してゆく。
新作映画「ラヴレース」ではこうした過激な内幕を「レ・ミゼラブル」のアマンダ・セイフライドが微に入り細に入り描写......してるわけではなく、カップルでも赤面せずに見られるソフトな表現でオシャレにまとめあげている。この文章を読んでカーッっと体が熱くなった方はややモヤモヤ感を感じるかもしれないが、70年代初頭のアメリカの解放的ムード、そしてファッションと音楽を楽しみながら、ポルノの歴史というものを考えてみるのも良いと思う。このようなアメリカンポルノの背景をより詳しく勉強したい人は「インサイド・ディープ・スロート」という05年製のドキュメント映画がDVDで出ているので、「ラヴレース」の観賞前後に参照すると事情がよりよく分かるはずだ。
さて、その「ディープ・スロート」、もちろん日本でも上映されている。配給がメジャーの東映洋画だったのはアメリカでの評判が反映されているのだろう。ただし日本版公開年は75年と遅く、しかも税関で多くのシーンがカットされて、劇場公開するにはあまりに時間が足りず、結局同じハードコア映画の「ミス・ジョーンズの背徳」とあわせて1本に編集した、ツー・イン・ワンの怪作となった。編集の労をとったのは、当時東映の下請け仕事を多く取っていたピンク映画監督の向井寛。彼はアカデミー賞監督・滝田洋二郎(『おくりびと』)の師匠である。
60年代末、ヨーロッパでのポルノ解禁の報が伝わると、「日本でも!」の動きが加速し、実際、日活がロマンポルノ転向を表明した71年秋には「この機に解禁か?」という憶測も流れた。しかし結果は修整の入りまくった成人映画ですら「わいせつ」の容疑がかけられ72年のロマンポルノ摘発事件となり(80年に無罪判決が確定)、その後、AVの時代まで修正規制緩和の動きがあるたびに警察が動いて裁判所がわいせつ基準を堅持する流れがずっと続いている。日本では、司法上いまだに70年代と変わらないポルノ規制が続いているこの保守性、後進性をあなたはどう考えるか。
もちろん本音とタテマエのダブスタを暗黙に了解するお国柄であるから、前述したように80年代にビデオ商品が普及すると「裏ビデオ」が市場にあふれ、アメリカ製ハードコアをダビングした無修正ポルノが大量に流通した。その時代に筆者を含む日本人はようやく「ディープ・スロート」の無修正版を見て「おーっ、スッゲー!」と狂喜したのだ。ま、すでにトレーシー・ローズとか極上のパツキン女優がいた時代だから、リンダ・ラブレイスは"何だこりゃ"なオバチャンにしか見えなかったのだが(それでも彼女は当時22歳)、それがポルノの世界的ビッグネームである事実は、ポルノを単なる射精メディアにとどめず、男性に芸術性をたたえた社会的コンテンツと認識させた。「ディープ・スロート」がポルノはただの消費財ではないと考えさせた意義は大きい。先の「インサイド・ディープ・スロート」を見ると、アメリカにおいて「ディープ・スロート」が非常に政治的な映画ということが理解できる。あから今も、主演女優の伝記が映画化されるのだ。
それからすると日本でも「インサイド『愛のコリーダ』」とか「インサイド愛染恭子」「インサイド黒木香」のようなドキュメンタリーがあってもいいのではないかと思える。そして、ポルノの、ハードコアの政治性・社会性を咀嚼した上でアマンダ・セイフライドがリンダ・ラブレイスを演じたように、綾瀬はるかや蒼井優や能年玲奈がポルノ女優の伝記映画に主演するような時代がくればいい、とも思う。ポルノの社会的意義を検証する意味でも「ラヴレース」は多くの人にみられるべきだ。
Written by 藤木TDC
『ラヴレース』3月1日(土)ヒューマントラスト有楽町ほか全国順次ロードショー
Photo ©2012 LOVELACE PRODUCTIONS,INC.ALL RIGHTS RESERVED
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