『永遠のファシズム』(岩波書店)
2016年に世を去ったイタリアの作家ウンベルト・エーコは、1980年に発表した『薔薇の名前』で世界的にその名を知られた。同時に記号学者としても活躍し、優れた評論家、哲学者でもあった。欧州を代表する知性であり、生み出した膨大な作品群の全貌を正直、僕はとても網羅できていないが、97年に発表した評論集(邦訳は『永遠のファシズム』として岩波書店から刊行)には学ぶところが多く、いまも時おり読みかえす。
その中の1編でエーコは、主に移民や民族問題について論じつつ、こんな一文をかいている。
『自分と違うひと、見知らぬひとへの不寛容は、欲しいものをなんでも手に入れたいという本能と同様、子どもにとっては自然なことだ。(略)不幸なことに、寛容は、おとなになってからも、永遠に教育の問題でありつづける』(和田忠彦訳、以下同)
要するに異民族への差別といった「不寛容」は、人間に本来ある獣性のようなものであって、これは「教育」によって正すしかない、ということだろう。でないと、とんでもないことになるとエーコは警告する。
『どんな理論も、日々占領地域を拡大していく匍匐前進の不寛容のまえでは無効でしかない。野蛮な不寛容は、やがてあらゆる未来に人種主義的教義を提供することになる。カテゴリーの短絡に基づくものだからだ。つまり、もしも過去数年イタリアに入国したアルバニア人が泥棒や娼婦になった(事実そうなのだが)とすれば、アルバニア人はみんな泥棒で娼婦になると考えるのである。これが、わたしたち一人ひとりをいつも誘惑しつづけるおそろしい短絡現象なのだ』
そしてエーコはこう書く。
『知識人たちには野蛮な不寛容を倒せない。思考なき獣性をまえにしたとき、思考は無力だ。だからといって教義をそなえた不寛容と闘うのでは手遅れになる。不寛容が教義となってしまってはそれを倒すには遅すぎるし、打倒を試みる人びとが最初の犠牲者となる』
さて、なぜエーコの文章を長々と引いたかといえば、国際政治学者を名乗る人物が最近、テレビのバラエティ番組でこんなことを言い放ったと知ったからである。いわく「スリーパー・セル」なる北朝鮮の「テロリスト分子」が日本には潜伏していて、「いま大阪ヤバいって言われていて」と。
僕は記者として長く公安警察や朝鮮半島の取材をしてきたけれど、公安当局者から「スリーパー・セル」などという単語を聞いたことはないし、「いま大阪ヤバい」などという話も初耳。典型的な一知半解の妄想だと直感するものの、そうした批判はネットでも盛んに指摘されているようだから、ここでは深く論じない。
ただ、いかにこの国際政治学者が言い繕っても、このようなことをいま言い放てば、在阪を中心とした在日コリアンへの偏見が煽られるのは火を見るより明らか。まさに巷ではヘイトスピーチを公然とがなる連中が大手を振り、無残なヘイト本が乱造され、エーコのいう「匍匐前進の不寛容」が「日々占領地域を拡大して」いるかのような状況である。
さらにエーコの言葉に従えば、こうした「野蛮な不寛容」がさらに燃え広がれば、「知識人」にそれを倒せない。ならば国際政治学者を自称している者、本来は「野蛮な不寛容」を徹底して戒めるべきであり、少なくともそれを煽るような言動は慎むのが最低限の矜持。
でなければ、「不寛容」を盛んに煽るヘイト本の作者やヘイト行動の当事者たちと同列であり、「不寛容」に「教義」を与える扇動家にすぎないと僕は思う。(青木理・連載『逆張りの思想』第四回)
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