『黒い眼』
今から50年近く前のこと。加藤英二さんの母方の叔母、洋子さんが突然、奇妙な病に冒された。左右の眼球の白目が真っ黒になり、飲まず食わずで夜も眠らず一日中ずっと何かブツブツ呟いているようになってしまったのだ。
親戚一同で洋子さんを病院の精神科に入院させたが、病名がわからず、点滴で栄養を補給したり睡眠薬で眠らせたりすることしかできなかった。家族や医師と会話することも不可能で、ただ生かしておくだけという状況が3ヶ月も続いた。
そんなある日、彼女の従姉にあたる加藤さんの母がお見舞いに行って話しかけると、急に両の眼に白目が戻って、問いかけに応えた。
聞けば、洋子さんは3月半ほど前に家を大掃除して、そのとき神棚にあった古いお札やご神体を庭で焼いてしまったのだという。
加藤さんの母は、すぐに知り合いの拝み屋に相談した。すると拝み屋から「千葉のお滝不動の水を飲ませなさい」と告げられた。
千葉のお滝不動というのは、千葉県の御瀧山金蔵寺の愛称だ。
果たして、御瀧山金蔵寺に行ってみたら、たしかに「行者の滝」と呼ばれる湧き水が境内にあって、霊験あらたかな縁起物として尊ばれていた。
そこでさっそくここで汲んだ水を持ち帰って洋子さんに飲ませたところ、ときどき洋子さんの眼に白目が戻るようになった。全快には程遠いが、加藤さんの母は洋子さんが退院したら、お滝不動の行者の滝に連れていくつもりだった。
何度目かに水を持っていって飲ませたとき、「一緒にお滝不動に行こうね」と話しかけると、洋子さんは嬉しそうにうなずいた。しかし、その翌日か翌々日くらいに、洋子さんは帰らぬ人となってしまった。
入院していた病棟から近い崖の下で、遺体となって発見されたのだ。夜のうちに病棟を抜け出たようで、朝になって敷地を巡回していた警備員が崖の下に倒れている洋子さんに気づいたときには、とっくに冷たくなっていた。
崖は病院の敷地の端にあり、転落防止の柵が設置されていた。柵には有刺鉄線が巻きつけられていて、いくら病棟から歩いてすぐの距離とはいえ、長期の入院で体力が衰えた洋子さんが自力でこの柵を乗り越えるとは考えづらかった。
しかし自殺で片づけられたので、加藤さんの母は割り切れない思いだったようだ。何かの呪い、あるいは祟りが従妹の死の原因だったのではないか、と思われて仕方がなかったのだろうか......。
この出来事がきっかけで彼女は御瀧山金蔵寺の御本尊である不動明王を信心しはじめた。加藤さんをはじめとする子どもたちや夫を連れて、年老いて体の自由が利かなくなるまで、毎月28日のお不動様のご縁日には欠かさず御瀧山金蔵寺をお参りしていたという。
『ポケットの塩』
加藤英二さんは不動明王を信心する母に育てられ、自身も熱心な真言密教の信者になった。さらに30年ほど前に父が創業した建設会社を受け継いだので、地鎮祭などを通じて神道についても玄人はだしの知識を身に着けた。
そのうえ、元より人に比べて〝見える〟方だった。いわゆる霊感の持ち主だったのだ。
幽霊は存在を感知してくれる人の方へ寄りついていくとよく言われるが、加藤さんが手懸ける建設現場には怪談めいた現象がたびたび起こった。
たとえば、10年ほど前のことだが、某産婦人科病院を解体していたところ、若い作業員が赤ん坊の泣き声を聞きつけた。呼ばれて加藤さんが駆けつけてみたところ、本当にどこかから赤ん坊の声がしていた。
しかし解体工事の最中だ。赤ん坊などいるはずがない。
一応、作業の手を止めて数人で手分けして声の出どころを探してみたが、赤ん坊も、赤ん坊の声を発しそうな物も何にも見つからなかった。その日は早めに作業を切り上げて、翌朝おそるおそる来てみたら、もう赤ん坊の泣き声はしなかったという。
また、これも解体工事の話だが、あるとき総合病院の解体工事を請け負って作業をしていたらこんなことが起きた。
朝、作業を始めたら、どこからともなくピンク色のパジャマを着た60歳前後のおばさんが現れて、
「すみません。私の部屋は何号室ですか?」
と、作業員たちに訊きながら工事現場を徘徊しはじめたのだ。
明るい陽射しの中を歩きまわり、目が合った全員に同じ質問をして回る。外国人の作業員にも問いかけて、「わかりません」と首を横に振られると、すぐまた別の作業員のところへ歩いていく。
あまりにも姿形がはっきりしている。裸足にスリッパを履いていて、そのスリッパが立てるペッタンペッタンという音まで聞こえる。
これは生きた人間であるとその場に居合わせた20人を超える作業員全員が思った。
しかし、このパジャマのおばさんを捕まえようとすると、どうしても捕まらない。体力自慢の男たちが本気で捕まえようとして、逃げられるはずがないのだが、魔法のように身をかわされてしまう。
おまけに、よく見たら、おばさんの足もとには影が無かった。
そこで加藤さんは、このおばさんを無視するように作業員たちに命じて、作業を再開させた。すると程なく、人骨が発掘された。
掘り当てた作業員は動悸がひどくなり、胸の痛みを加藤さんに訴えた。
おばさんの幽霊も出没していることだし、作業員の動悸や胸の痛みも霊障かもしれない。咄嗟にそう思った加藤さんは、たまたま持っていたお清めの塩を作業員の胸ポケットに入れてやった。
......たちまちこの作業員の動悸と胸の痛みが治まった。
このことから、霊の仕業に違いないと確信した加藤さんは、翌朝、作業員全員に小袋に詰めた粗塩を渡して、作業服の胸ポケットにしまっておくように言い渡した。
以後、この解体工事現場では、おかしなことは何も起きなくなったそうだ。(川奈まり子の奇譚蒐集・連載【十六】)