中川淳一郎の俺の昭和史

昭和のプロ野球選手名鑑はとんでもなかった!! |『オレの昭和史』中川淳一郎連載・第十回

2018年01月30日 

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まもなくプロ野球もキャンプインするが、新シーズンを前に楽しみなのが「プロ野球名鑑」である。誕生日、出身地に加え身長や体重、その人柄やらここ数年間の成績が書かれており、野球観戦を楽しくする重要アイテムとなっている。

このプロ野球名鑑だが、1982年頃のものを見てみると、とんでもない情報が書かれているのである。それは、「選手の自宅住所」と「妻の名前」である。今であれば完全にプライバシーの侵害でしかないのだが、これを書くのがまかり通っていたのである。当時小学生だった我々はプロ野球名鑑を見て、我々の居住エリアから近いところに住んでいる選手が誰かを話し合った。

川崎市宮前区在住だった我々にとっては、新玉川線(現・田園都市線)で行ける地域に住んでいると推測した巨人の加藤初投手に対し、途端に親近感を抱くようになるのである。
当時、私達の学校でもっとも人気があったのは、1979年から始動した西武ライオンズである。新しもの好きだった子供達は、巨人や地元・ロッテファンから西武ファンに鞍替えをした。恐らくはあの水色のユニフォームのカッコ良さと、手塚治虫が描いたジャングル大帝レオのイラストが心を掴んだのだろう。

そうして、西武ファンが最も多くなり、巨人を嫌うようになる。しかしながら「近所に住んでいる」というだけで、巨人は嫌いだが、加藤だけは応援する、という妙なねじれ現象が誕生するのだ。

また、新興球団である西武の場合、選手の自宅住所は西武球場のお膝元である「所沢市小手指」だらけだった。小学生は「家が近いってことは西武の選手はみんな仲がいいんだね」などと言っていたのだが、今考えると単に西武球場に都心から通うのが負担だったというだけだろう。さらに「小手指(こてさし)」と読むことができず、「これは"しょうてゆび"だろ?」やら「いや、"こてゆび"だ!」などと議論していたのだ。当時はネットもないので、この地名の呼び方は謎だった。

というか、当時の球団はなんと関東と関西に集中していたことか! 東京には巨人、ヤクルト、日本ハム、神奈川には大洋(現・横浜DeNA)とロッテ、埼玉に西武で実に6球団がこの1都2県に集中していたのだ。そして大阪には南海(現・ソフトバンク)と近鉄(現・楽天)があり、兵庫に阪神と阪急(現・オリックス)があった。


プロ野球名鑑の珍コラム「佐藤男」


そんな時代背景だったのだが、話は選手名鑑に戻る。中に入っているコラムがこれまたとんでもないものが多く、「阪神に2人の佐藤文男投手が登場」というネタについては、スポーツ新聞社が発行する名鑑らしく、「一人を"佐藤文"、もう一人を"佐藤男"と書くか迷っている」といったネタが書かれる。せめて、どちらかが打者であれば、書き分けも可能だったかもしれないのだが、両方とも投手、しかも右投げだったため、このコラム通り1982年の阪神には「佐藤文」と「佐藤男」が存在した。

ヤクルトの新外国人選手・デビット・デントンが、ヤクルトのユマキャンプにテストのためにやって来た際は、あまりにもみすぼらしい格好をしていたと紹介。誰もその人物のことを野球選手だとは思わなかった、という珍エピソードを紹介するのだが、そこに添えられたイラストがとにかくヒドい! 髪の毛もヒゲも伸び放題で、目はトロンとしている。洋服も靴もボロボロで、あまつさえデントンの周囲にはハエが飛んでいるのだ!

今であれば、こんな記述は選手に対するリスペクトが足りない! と叩かれそうなのだが、こんなことがまかり通っていたのである。また、当時はまだ外国人選手への偏見も残っていたのか、広島のジム・ライトルの紹介文には「来日当初は心無いヤジを受けていた」といった話に加え「今ではライトル・コールも発生する」と続き、「ある記者は"彼こそ真の日米友好大使では"と語っていた」といった記述もあった。


文◎中川淳一郎

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