近代日本に誕生した南大東島の独立国秘話(後)【ニッポン隠れ里奇譚】

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▲玉置半右衛門が実験農場を築いたといわれる跡地

 玉置商会破綻の理由は諸説あるが、大きなポイントは二つある。

 一つは、玉置半右衛門が明治43(1910)年に死亡したことである。半右衛門は東京へ向かう途中、病に倒れて船中で亡くなった。73歳だった。

 二つめの理由は、半右衛門の後継者である息子たちの相続争いや、経済観念のなさであった。

 半右衛門には三人の息子がいた。いずれも慶応義塾を卒業し、アメリカ留学をしていた。エリートだった。当時、アメリカ留学をするには、莫大な資金が必要だった。それこそ、一般庶民の十年分の収入を、一ヶ月で消費してしまうほどだった。だが、南北大東島の”王様”である半右衛門にとっては、雑作のない手頃な金額だった。

 しかし、三人とも経営の才能はなかった。半右衛門の死後、その跡を継いだ長男には、経営の才覚はなかった。酒池肉林とまではいかないが、酒色で放蕩三昧にふけって、あっというまに商会の屋台骨を傾けた。次男、三男は財産の分割を激しく要求して、足を引っ張るだけだった。

 半右衛門の息子たちについては、こんな逸話が残されている。

「赤坂で芸者を揚げると、百円紙幣を重ねて、芸者たちにばらまいた」(この頃の1円は、現在の3800円くらい。百円紙幣1枚は38万円ほど)

「停電したら、百円紙幣をローソク代わりにしていた」(長男か次男)

「三男の中学生時代、高価な写真機を持ち、頭髪はコスメチック(整髪料)をつけ、きれいに分けていた。体操の授業のときは、ワイシャツにネクタイをつけていた。中学生なのに、猟銃を持って発砲し、卒業後すぐに自家用車を乗り回していた」

 最後の三男にかかわる逸話などは、まるで「巨人の星」に出てくる花形満ではないか。本当にああいう光景は存在していたのである。

 玉置商会の破綻は、あっというまの出来事だった。

 玉置商会の破綻で、南大東島で働く人たちに激震が走った。ほおっておけば、物品引換券は紙切れとなり、会社に預けていた貯金は消失してしまうからだ。

 ここで南北大東島で生産されていた砂糖の販売を一手に引き受けていた、大手商社の鈴木商店(昭和恐慌で倒産)が登場する。鈴木商店の斡旋で、南北大東島で玉置商会が展開していた製糖事業の権利は全て、東洋製糖会社に合併、引き継がれることとなった。東洋製糖とは、植民地の台湾で製糖業を行っていた会社である。

 その結果、玉置半右衛門が構築した物品引換券のシステムや、全部の島の土地の占有、病院や学校の運営などは、ほぼそのまま東洋製糖という一企業が引き継ぐこととなった。玉置商会の下で働いていた移住者たちは、ほとんど権利を得られなかった。

 昭和2(1927)年の金融恐慌の年には、今度は東洋製糖が経営不振に陥り、南北大東島の権利は、大日本製糖会社へ移譲された。太平洋戦争後は、権利がさらに大東糖業社へ移され、島民が土地などの諸権利を獲得できたのは、ようやく昭和39(1964)年のアメリカ軍政下まで待たなければならなかった。

 南北大東島は、実に60年余りにわたって、個人や企業が支配する島であり続けたのである。

 そもそものきっかけであり、始まりでもあった明治の奸雄、玉置半右衛門が本拠を定めた集落は、南大東島の”在所”というところだった。その意味は、島の王様である半右衛門の在所だったということである。

 その南大東島の”在所”に今年の六月に出かけてみた。

 在所はのどかな村だった。村はずれには公園があり、そこから池や沼の絶景を望めた。

 驚いたことに、梅雨だというのに、連日雨が降っていた。南大東島では、考えられない異常事態だった。実は、沖縄県地方が梅雨入りしていても、大東島地方だけは、晴れが続いて、時には水不足になるのが、ここ数十年間の常だった。そんないつもの年の梅雨とは、今年はまったく異なり、連日雨が降るという異常事態だったのだ。

「再び、この素朴な島や日本を、異常な事態が席巻する。その前触れではないか……」

 島の古老の一人がポツリとつぶやいた、そんな不気味な予言じみた言葉がやけに耳の奥に残る。

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▲亜熱帯の木々が生い茂る南大東島

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▲南大東島の中央付近に散在する池や沼

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▲南大東島の地中に広がる広大な鍾乳洞

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▲南大東島に残る古き地蔵

Written Photo by 石川清

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ニッポンの隠れ里。

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