“なにを言われても大丈夫” になんてならなくてもいい。アイドルにメンタル最強という肩書きを背負わせてしまったわたしたち|成宮アイコ・連載 第十一回

 

悪口を言われる側にいる自分

女の子のアイドルが好きです。
これまでの連載で書いてきた通り、難ありの家庭環境で育ち、自己形成に失敗をして人間関係でつまずきまくり、「あらゆる他人は自分なんかに話しかけられたら迷惑かもしれない」と思ってしまう系チームにいるわたしにとって、アイドルとファンの形式はとても都合の良いシステムだからです。アイドルは、こちらが応援をすること、好きになることを(もちろん常識の範囲で)受け入れてくれますし、いつでも歌と踊りで元気をくれます。こちらはただ安心して好きでいていい、画期的です。

ただ、今回のコラムはアイドルについてではありません。

一部、あるアイドルの女の子についての話題に触れますが、彼女やファンの方が不本意な思いをしないように文中では名前は伏せておきます。

「もう忘れました」と言いたいような記憶

まずは、今回のテーマを書くきっかけになった女の子について書きます。

彼女のことを知ったのは、彼女が所属しているグループに好きな顔の女の子がいたからでした。その子の動画を見てみたくて検索をしたところ、一緒に動画配信をしていたのが彼女でした。文中ではNさんとします。あまりにも話が面白かったので気になり、Nさん単独の動画を見てみようと思いました。
そのグループについての前知識がまったくなかったので、適当にクリックをします。再生した動画で、Nさんは微笑みながら自分の過去の話をし始めました。

小学校のときにひとりも友達がいなくて泣きながら下校をしていたこと。ピンクが好きなだけでぶりっ子と言われていたこと。男子からいじめられていたから当時の記憶を忘れた(ことにしている)こと。悪口を言ってくる人にも、その人を大事に思っている人(たとえば親)がいることを忘れないということ。

とたんに他人事とは思えなくて息がつまり、なぜか、小学校の緑色の廊下を思い出していました。

美術室の机に、名指しで書かれていた「ガッコウクルナ」「シネ」。
アニメの下敷きを持っている子への、「オタクが感染る」。
先生と仲がいい子への、「優等生ぶってる」。
グループ競技でボールを落とした子への、「ウザイから参加しないでほしい」。
図書館で本を読んでいる子への、「暗くてキモい」。
みつあみにリボンをつけている子への、「ぶりっこでむかつく」。

集団の結束を強めるために、もしくは自分の立ち位置を守るために、人はしばしば誰かを排除したがります。
ちなみに、例にあげたものは全てわたしが過去に言われたことのある悪口でした。緑色の廊下の思い出は、苦笑いをしながら「もう忘れました」と言いたくなります。

Nさんの配信はこんな言葉で締めくくられました。
「面と向かって悪口なんて言われたらメンタルやばくない? だから悪口は言っちゃだめだよ」

死ねってどういう気持ちで言うんだろう

あの廊下から見た光景で、もうひとつ忘れらない記憶があります。休み時間、サッカーに入れてもらえずに、グラウンドの土の上に座っていたクラスメイトの後ろ姿です。「お前がいるチームは負けるからそこで見てろよ」「アハハハ! だよね、ごめん」

休み時間終了のチャイムが鳴るまで、彼はそこからクラスメイトを眺めていました。途中、通りがかった先生は、「そんなとこに座っていないで仲間に入れてもらえよ」と声をかけます。「大丈夫です。俺、足遅いから見てます」と明るく答える笑顔。
笑顔には種類があります。リレーの時間、彼が走るたびに笑いだすクラスメイトの笑顔とはまったくの別物です。感情が微妙にマヒしてしまったときに出るむりやり作った笑顔、わたしも経験があります。

わたし自身の、人よりもだいぶ高い声について触れられることにはさすがに慣れましたが、慣れたからといって平気ではありません。声マネをされても笑って流すことはできますが、心の中では、「ああ、またか…」と、今日までの人生ごとえぐられたような気持ちになります。
さらに、まわりにフォローしてくれる人がいない場合は、自分で笑い話にしなくてはいけないので、ますます無理が必要です。「もー、やめてくださいよー、こういう声なんですよー」そう言うしかありません。
こうして無理やり笑いにしたあとに、「もう二度とこの人には会いたくないな」と思いますし、一緒になって笑っていた人の無神経さにダブルで傷つきます。

ですが、傷ついていることをリアルタイムで悟られると、自分の傷、そしてとても向かい合えないほどの “コンプレックス” や “過去” をふたたび認めることになってしまうので、「慣れてるからいいですけど」といった態度をとります。そうしないと、とてもやりすごせないからです。
人の心は、いくら場数があろうが、いくら傷つき慣れようが、大丈夫だからといって平気ではないのです。心の傷はイタズラではすまされません。「気づかなかった」「そんなつもりじゃなかった」と言って相手の痛みをなかったことにしてはいけないと思うのです。

Nさんの話に戻ります。インターネット上で写真を共有するSNSアプリケーション “Instagram” には、24時間で投稿が消えてしまう「ストーリー」と呼ばれるシステムがあります。そこでNさんは「死ねって言う人はどういう気持ちで言うんだろう」というニュアンスのことを書いていました。NさんのSNSには “荒らし” と呼ばれる、悪口を書き込む人が大勢いるそうです。24時間で消されてしまう文字と一緒に、悲しさや傷ついたことをなかったことにしなくては保てないやり場のなさを想像します。

不安や悲しさに耐えきれず、誰かに言いたいけれど言えなくて、ツイッターやブログに弱音を書き込み、しばらくしてから削除したことはありますか? わたしはあります。自分自身で消してしまった “誰かひとりにでも気づいてほしい・見つけてほしい本音” は、あまりにも悲しくて、なかなか気付かれにくいものです。

そうさせてしまったのはわたしたち

ここで一度、このテーマの根本に目を向けてみます。
たとえば、「あの人はメンタルが強いから」と言われている人がいたとします。その後に続く言葉は簡単に想像がつきます。

あの人はメンタルが強いから、「助けなくても平気だよ」
あの人はメンタルが強いから、「このくらいじゃ傷つかないよ」
あの人はメンタルが強いから、「なにを言っても大丈夫だよ」

同じニュアンスで、使われやすい言葉はたくさんあります。「あの人はこういうの慣れているから」「あの人は鈍感だから」「あの人はポジティブだから」「あの人はそういうの気にしないから」

こういった、「あの人は◯◯だから」という呪いは、まわりにいるわたしたちの認識を歪め、ほんとうに大丈夫な気にさせてしまうのです。さらにその呪いは、「まわりの雰囲気」として本人にも伝わります、「自分は◯◯だから」。こうして限度はエスカレートしていくのかもしれません。

しかし、本当に大丈夫な人はいるのでしょうか。
百歩譲って、たとえ大丈夫だとして、大丈夫ならば嫌がらせをしてもいいのでしょうか。慣れていれば暴言を浴びせてもいいのでしょうか。

グラウンドで「大丈夫です」と笑った男の子。
「慣れてるからいいですけど」と笑ったわたし。
そしてメンタル爆強の肩書きで “荒らし” に笑顔でコメントを返すNさん。

この「大丈夫」は、どうしても本音には見えません。どのパターンの当事者になっても、わたしだったら全然大丈夫ではないです。

人の心はちゃんと傷つきます。あの人は◯◯だからこのくらい大丈夫だろう、という測り方は決してしてはいけないと思うのです。大丈夫と思われているのなら、それはまわりにいるわたしたちがそうさせてしまったのです。悪意を向けられても大丈夫にさせてしまったのも、傷つくことに慣れさせてしまったのも、まわりにいるわたしたちです。

そして、一番最初に気づくべきだったことがあります。
そもそも、「”なにを言われても大丈夫” になんてならなくてもいい」ということです。本来ならば、なる必要もないし、なるべきではないことのはずです。

わたしたちが本当に大丈夫であるために

人は隠しておきたい本音を言うときに、心の逃げ場を作るためなのか、笑ってしまうことがあるようです。

むかし観た児童養護施設の映画で、ちいさな女の子が自分の心の中を話すときにニコニコと笑っていたことを思い出しました。周りの人は、「なに笑ってるの」と茶々を入れますが、園長先生がその子の頭を撫でながら言った言葉が頭に残っています。「そうだよね、笑ってないとやってらんないよね」

わたしが観た昔の動画で、Nさんは、「エゴサーチなんてしたら(=悪口を見てしまったら)死んじゃう」と笑いながら言っていました。あれはきっと本音だと思うのです。そして、わたしたち誰しもが思っていることです。

メンタルが強かったのでも、強くなったのでもなく、強くならざるをえなかったこと。そうさせてしまったのはわたしたち周りにいる人の無意識であったり、誰かの明確な悪意であること。声はあげられなくても、せめて相手の気持ちを考えていられるようにありたい。
彼女が、そして、大丈夫じゃないのに笑いながら、「全然大丈夫だよ」と嘘をついたことのあるあなたが、どうか幸せでいてほしい。誰かの不幸を願うよりも、わたしたちが一緒に幸せでいる方法をできるだけたくさん見つけたいものです。

そして、いつか大好きなアイドルのことについて、こんなに悲しくて不毛な文章ではなく、幸せな文章を書ける機会が来ることを願って。

(成宮アイコ・連載『傷つかない人間なんていると思うなよ』第十一回)

文◎成宮アイコ