【未解決事件 File.1】 池袋駅立教大学生殴打殺人事件3【消えた殺人者たち】
犯人の似顔絵(警視庁ホームページより)
※前回までの記事
http://tablo.jp/case/news002824.html
http://tablo.jp/case/news002855.html
1998年立教大生小林悟さんが午後11時、帰宅ラッシュの衆人監視の中、池袋駅構内でもめごとに遭いサラリーマン風の男に殴られ、亡き人になりました。事件を忘れてはならない為、筆者はその当時の池袋駅から犯人の逃亡ルートを探ぐる事にしました(編集部)
被害者の父親の証言に病院の不手際が
それにしても、単に平手打ちを食らって転倒しただけで死亡に至る……とは、いくら打ちどころが悪いといっても、ちょっと信じにくい。
僕は悟さんのお父さんに会って、もっと悟さんの「事件後」から「死」にいたる過程について、詳しく聞いてみることにした。すると、悟さんの「死因」をめぐって、意外な事実が明らかになってきた。
「息子は、手術など適切な手当てを施せば助かる可能性もあったのです。それを思うと私は悔しくて、申し訳なくて……」
僕に会うなり邦三郎さんは息子の悟さんに対する深い自責の念を吐露し始めた。他に妹はいるが、大切な一人息子だったのだ。
実は邦三郎さんは、病院が適切な措置を施さず放置したとして、悟さんが最初に運び込まれた「I 病院(邦三郎さんの訴訟の都合上、名称は省略させていただく)」を、事件発生後の約1年後の97年5月に医療過誤で告訴していた。
それはなぜか。
いったい救急車で運ばれた悟さんに何が起きたのだろうか。邦三郎さんは悟さんが亡くなった一週間ほど後に、記憶が鮮明なうちにと、悟さんの治療の過程を時間経過を含めて克明に記録していた。そのメモを元に、事件の夜の悟さんの「その後」をたどると……。
●午後11時30分頃、事件発生
しばらくけいれんなどを起こしていたが、まもなく意識は回復。救急車を待つ間に警察官の事情聴取を受けているが、自分の姓名や住所はきちんと答えていた。だが、自分がどうしてケガをしたのかについては、「わからない」「覚えていない」と答えている。すでに記憶傷害の兆候か。しかし、このことは救急車から病院側へは伝わっていない。
●午前0時20分頃、「I 病院」に到着、入院
CTスキャンやレントゲンなどの検査を行い、午前1時頃に検査は終了。後頭部の頭蓋骨の骨折と内出血の事実が判明した。当直の医師は、アルバイトの台湾出身と見られる中年の男性医師。出血止めと脳の血圧を下げる薬を投与したという。その後、悟さんは病棟のベッドに運ばれて横になる。
●午前2時50分頃
連絡を受けた両親の邦三郎さんらが「I 病院」にかけつけてきた。
「当直の医師は眠っていたんです。そして私たちが起こしたら説明に出てきました」
医師は上記の治療の説明をしたうえで「もう出血も止まっていますから安心してもいい。安静にして眠らせてください。大丈夫ですから。念のため今晩一晩付き添ってくれませんか」と話した。
この時は、特に改めて悟さんを診察しておらず、邦三郎さんが異常に気付いて呼びに行くまで医師は診察には来てはいない。
邦三郎さんも、その説明でひとまず安心する。
しかし、「息子はベッドの上に立ち上がって意識もあやふやで混濁状態のようでした。だけど医師は『酒のせいです』と取り合ってくれなかったのです」
●午前4時40分
悟さんの足が震えるなどしていた。さすがにこれはおかしい、と邦三郎さんは医師を起こして診断を依頼する。医師は左目瞳孔に異常を発見し、「早急に手術のできる病院へ転送を!」という指示を出す。
●午前5時40分
ようやく移送先が東京女子医大に決まる。
●午前6時
救急車到着。
●午前6時20分
悟さんの呼吸が止まったために、救急車は「I 病院」にあわてて引き返し、人口呼吸になどの措置を施す。
「この時に、当直の医師は人口呼吸をしながら『出来るだけ長く生かしたいですね』と言ったんです。その後、病院側はその発言を否定しているんですが……。私も覚悟しましたよ……」
●午前6時50分
当直の担当医師同伴の上で、再び救急車に乗せて女子医大へ移送。
●午前7時20分
女子医大に到着。
●午前7時25分
付き添いの「I 病院」の医師は検査も見ずに「すみません」と言い残して女子医大を去る。
●午前7時30分
悟さんの検査結果報告が出た。再度の脳内出血が発生。もはや手遅れの為、助けること絶望と判明……。
「実に事件発生から8時間余りの間、息子は手術のできる病院に収容されずに、また適切な治療を受けられずにいて、その結果、命を落としたことになります。
息子は誤診のため命を絶たれたのです。
調べると、日本ではこういった救急病院にまつわる事故が非常に多いようです。そういった現状を改め、これ以上の被害者を出さないことが、せめてもの息子への償いと思い、告訴に踏み切りました」
もちろん、告訴の前に邦三郎さんは、何度も「I 病院」と交渉を持っている。しかし、病院側と担当医師は、ただ「息子さんを助けるために一生懸命やりました」と繰り返すばかり。悟さんのカルテさえ見せてくれずに、らちが明かなかった。
そんな、父親にとってはあまりにも虚しいやりとりの果ての告訴だった。ちなみにこの「I 病院」は、池袋周辺で唯一「なんでこの患者を運ぶんだ」と、救急車に文句をつける”評判の”救急病院だったという。
そして、さらに付け足せば、なぜか告訴の直後(7月)から半年間、執拗な嫌がらせ電話が邦三郎さんの家にかかり続けた。
「バカ野郎」「いつまでテレビに出ているたんだ」「娘を東京湾にコンクリ詰めで埋めてやるぞ」
相手の電話番号を表示できるようにしたとたん、嫌がらせ電話はなくった。ただ、最後の電話で「俺はI 病院の息子だ」という謎のメッセージを残し切れたという。それまで、報道ではまだ「I病院」のことは公表されていなかったにもかかわらず。
被害者の父親の犯人捜しへの努力
不幸にして命を落とし悟さんに、誇れるものがあったとすれば、邦三郎さんを父親に持てたことだった。
邦三郎さんは、病院の問題だけでなく、犯人の行方がわからなかったり、悟さんへの根拠のない中傷報道(酒に酔ったうえでのケンカで、仕方のない事故等々)という問題にも直面した。
そして。そのすべてを自分の力でなんとか解決しようと試みたのだ。
「当初は単なる傷害事致死事件ということで、警察の取り組みもそう熱心ではなかったのです。息子が亡くなってすぐの4月22日に池袋署に向かったところ、駅を歩く人に事件のことを聞いてみたのです。しかし、5人聞いて5人とも知らないということでした……」
その時の池袋駅には、犯人の似顔絵もついていない、ただ情報提供を求める看板が一つだけしか掲げられていなかったのだ。あわてて邦三郎さんは警察に交渉、立て看板を5つに増やしてもらい、同時に似顔絵も添付してもらった。
さらに、マスコミにも呼びかけて、広く事件への関心を呼びかけた。自分でも手製のビラを20万枚刷り、山手線、西武池袋線、東武東上線、常磐線などの主な駅をめぐり、貼りだした。声をからして呼びかけて、なんとか自分も目撃者を捜そうと歩き回った。
「ただ上野駅に貼り紙を出してくれと、頼みに行ったときのことです。『貼り紙を出すならお金を払ってくれ』と副駅長に言われて、愕然としました。広告と同じ感覚で受け取られたようですね。駅の構内という自分たちの『庭』で発生した事件だというのにです。JRの広報室に電話して強く抗議したところ、すぐに『貼らせてください』と返答が来ました」
それまで前例がないことだったらしい。他の鉄道会社でも最初は断られたりしたという。日本では、被害者側が積極的に犯人追及に動くことがほとんどない。だから、被害者であるにもかかわらず、積極的に犯人追及に動こうとすると、数多くの障害に逆に直面することになるのだ。
「実は現場を目撃していた一人が、犯人を渋谷で見かけたと知らせてくれたのです。『天狗』という居酒屋で、学生風のグループと一緒に飲んでいたそうです。そこで、山手線近郊の大学関係を全てまわって事件を知らせるポスターを貼ってまわったのですが、ただ一つだけ断られた大学がありました。慶応大学です」
他の大学が、同じ大学生が被害者ということで、快く協力してくれたのに、慶応大学だけは、頑として構内へのポスターの掲示を拒んだという。理由は「顔写真の載ったものは提示できません」の一点張り。結局、いまだに断わられたままだという。(「消えた殺人者たち」より再録・加筆)
文◎石川清