埼玉愛犬家殺人事件の源流を歩く 関根元死刑囚が犯罪に手を染めてゆく背景|八木澤高明
関根が経営していたペットショップ跡(筆者撮影)
「透明なボディーにしてやる」
埼玉愛犬家殺人事件、犬の取引きなどを巡るトラブルなどから四人を殺害し、2017年3月に東京拘置所で亡くなった関根元死刑囚が吐いた言葉である。
あくまでも立証されたケースが四人だけで、もっと多くの人間を殺しているという証言もあり、殺人鬼という言葉はこの男の為にあるといってもいい。
恐るべきはその手口で、犬を薬殺するための毒薬硝酸ストリキニーネを獣医から処方してもらい、栄養剤だと偽り飲ませ殺害したあと、当時知人が暮らしていた群馬県片品村に運び、そこで死体を解体し内臓、脳みそ、目玉、肉をきれいに削ぎ取り、骨は知人宅の庭で焼却し灰に、そして内臓や肉は切り刻んで、川に流した。正に冒頭の言葉通りに人体を跡形もなく消してしまったのだ。
埼玉県熊谷市、刈り入れの終わった水田の中に、一軒の廃墟がある。今にも雨を降り落としそうなどんよりとした天気が、その廃墟の不気味さに拍車をかけていた。かつてこの廃墟で関根元はアフリカケンネルというペットショップを経営していた。犬のブリーダーとして数多くの雑誌に登場し、シベリアンハスキーを日本に広めるなど、業界では有名な人物だったのだ。
埼玉県秩父市は関根元の生まれ故郷である。かつては賑やかな商店街だった通りの一角で関根元の父親は下駄屋を経営し、小さな長屋で生活していた。今では生家はなく、商店街も見る影も無いほど寂れていて、ぽつりぽつりと商店が営業しているに過ぎない。数少ない商店に足を運ぶと、店主が関根元と両親のことを覚えていた。
「元ちゃんのお父さんもお母さんも良い人だったよ。お父さんは良い下駄職人だったね。元ちゃんとは十歳ぐらい年が離れていいたから、そんなに頻繁に遊んだって思い出はないんだけど、面倒見のいいところもあったよ。よく人の相談にも乗っていたみたいだし。ただ調子良いところもあったけどね。何番目かの奥さんか忘れたけど、きれいな奥さんをもらった時は、どうやって結婚したのが不思議だったね」
ここ秩父で関根元は、実家の下駄屋の土間で犬の繁殖をはじめる。そしてこの時代に本人曰くアルバイトをしていたラーメン屋の店主を殺害してもいる。明るく気のいい兄ちゃんである反面、既にこの時期、後の凶悪犯罪へと繋がる芽は着々と育っていた。
急速にしおれていった父親の仕事
関根が犯罪に手を染め始めるのは、昭和30年代のことである。彼を犯罪へと導いた理由のひとつに、家業の衰退ということもあったのではないか。
関根の父親は群馬県の新田郡からこの地へ来て、下駄屋を開いた。戦前まで下駄は日常生活に欠かせないものだったが、戦後生活が西洋化し、昭和30年代にはゴム製のサンダルなどが普及すると、急激にその生産量を減らし、下駄屋の多くは町から消えた。関根の父親が開いていた下駄屋も昭和30年代後半に店を閉じていた。
当時10代後半から20歳前後の関根は、先細っていく父親の家業をその目に焼きつけていた。もし仮に、下駄屋稼業が経済的に旨味のあるものだったら、彼は父親の跡を継ぎ、土間で犬を繁殖させ売るようなことを思いつかなかっただろう。
家業の衰退によって、生活がきつくなり、赤貧を味わった経験が、後年事件を引き起こした背景にあった。金への執着はこの土地の長屋で培養されたといっていい。
罪を犯したのは関根自身であり、到底許されることではない。ただ、時代の流れという個人の力ではどうすることができないものも、犯罪の背景には間違いなく存在するのだ。
夕暮れ時、秩父の街中を歩いていたら、街並みの向こうに山肌が無残にも削られた武甲山が見えた。元々は勇壮な山容を誇っていたという武甲山だが今では石灰岩の採掘によって見るも無残な姿になっている。山そのものが人間の欲望により姿を変えてしまっている。己の欲望のために人肉を切り刻むことも厭わなかった関根元。武甲山の山並みと関根元の心の闇が重なって見えた。(取材・文◎八木澤高明)