月ヶ瀬村・女子中学生殺人事件 犯人の丘崎誠人が生まれ育った土地を歩く|八木澤高明
犯人・丘崎が住んでいた家屋跡(筆者撮影)
西名阪自動車を下りて、月ヶ瀬村へと向かった。私が訪れたのは新緑の季節だったこともあり、渓谷を吹き抜ける風が心地よく、山の緑が眩しかった。
これから向かうとしているのは、今から21年前に発生した「女子中学生殺害事件」の現場となった村である。
犯人の名前は丘崎誠人。月ヶ瀬村のとある地区で彼が暮らしていた家は、鬱蒼とした林の中にあった。陽はほとんど差さず、地面は水気を含み歩く度にぬめりとして足を取られた。ドクダミの異臭が鼻につく。
丘崎と両親が暮らしていた家は物置小屋に毛が生えた程度で家の中をネズミが走り回り、トイレはなく、この林の中に穴を掘って用を足していたという。その家はすでに取り壊されていたが、姉とその子どもたちが暮らしていた物置小屋は残っていた。時おり木々が風に揺られて「ギーィッ」と錆び付いたドアが開くような音を立てた。
それにしても、ひどい生活環境である。事件以前から丘崎一家の村における立場が、この生活空間に如実に現れていた。
「チョーセンだよ、チョーセン」
近所の女性に丘崎について何か覚えていないか尋ねると、開口一番彼女は言ったのだった。両親に朝鮮半島の血が流れていることを彼女は強調したのだった。
「まさかあんなことをするとわな。よそ者やから墓もここにはあらんしなぁ」
他の村人も丘崎が村の人間ではないことを強調した。
丘崎は月ヶ瀬村で生まれ育った。父親の代から30年以上に渡って村で暮らしてきたのだが、村人たちは彼らを村の一員として認めることはなかった。
親に買ってもらった車を乗り回していた丘崎
丘崎の父親は内縁関係の母親と丘崎が生まれる数年前から月ヶ瀬村に住み出した。村人の話によれば、ダム建設の労働者として働いていた父親が、母親と出会い、村人が物置小屋として使っていた小屋に住みはじめたのだという。
月ヶ瀬村の歴史は奈良時代に遡り、村人同士の結束も固く、村の中には与力制度という江戸時代の五人組と似たような制度がある。冠婚葬祭や家の普請まで与力と呼ばれる代表者が取り仕切る。区入りという村の一員になるには与力二人の推薦が必要で、丘崎の一家は区入りはしておらず、村八分と言っても良い状態であった。
村の中でのよそ者扱いが、成長するにつれて丘崎の心の中に暗い影を落としていった。
村の中での差別にも拘らず、丘崎の父親は真面目に働いていたという。丘崎が乗り回していた四輪駆動車も父親が毎月ローンを支払っていた。父親がよく酒を飲みに来たと言う食堂の女将が言う。
「お父さんは真面目な人やったよ、日雇いの仕事の他にも、頼まれたら庭の掃除や畑の草刈り、なんでも手を抜かずやりおったよ。特に大酒飲みっていうんなくてな、勘定もきっちり払っていきましたよ。お姉ちゃんも中学を卒業したぐらいの時にうちの店で働いたことがあったのよ、一週間ほどだったけどな、そのうちどこか他で働き出したんよ」
食堂の女将には真面目に見えたと言う姉はその後未婚の母となり、二人の子どもとともにあの物置小屋で暮らし、マスコミとも大立ち回りを演じた。
丘崎は何度か職に就くが、それも長続きせず、親に買ってもらった車で村の中を乗り回し、雄琴のソープランドや競馬場に通った。逮捕時押収された丘崎の車は三ヶ月で五千キロ走っていたという、単純に計算すると一日平均六〇キロ、ほぼ毎日のように村を離れて都市の中を彷徨っていたことになる。
月ヶ瀬から雄琴へは、山道の中を走り続ける。琵琶湖畔に出ると道は開け、派手なネオンが目立つようになる。満足に日も射さない薄暗い家に暮らす丘崎にとって、この家電量販店やファミレスやコンビニ、そして雄琴のソープランドのどぎついネオンは、正しく心休まる優しき光だったのかもしれない。
ひとときの安穏を終えて、再び電灯一つ無い山道を辿れば、その闇の底には彼にとって忌まわしき家、そして村があったのだ。(取材・文◎八木澤高明)