台湾・東北部の集落に今も残る「カタカナ墓」の謎
日本列島からさらに西へ行くと中国大陸がある。その手前の沖縄との間にあるのが台湾である。今でこそ台湾は、中国語が公用語となっているが終戦までは違っていた。それまでの半世紀、台湾は日本によって統治されていたからだ。それだけに日本時代の建物が残っていたり、日本語を話す年配者がいたりと今もその名残が存在する。
台湾の東北部にある武塔(ブター)という集落へやってきたときのことだ。そこは4~500人のタイヤル族の集落で、あたりは険しい断崖絶壁が続いているところだ。一本道の集落にはキリスト教会があり、その隣にはよろず屋があった。店に立ち寄ると、年配の女性にきれいな日本語で話しかけられた。
「先生どちらからいらっしゃった? 私たちは高砂族、ここはタイヤルの村だよ」と話すのは林永菊さんという年配の女性だった。
「永菊というのは戦後の名前でね、部族名はオンガイノーカン、日本人の巡査がつけた日本時代の名前は『菊山まつ子』です。日本時代に公学校で読み書きなどを勉強しました。今も日本語の本を読みますよ。聖書は日本語のものです。そうでないと読めませんから。戦争終わったとき十四歳でした」と彼女は続けた。
永菊さんとの語らいのほかに僕がしたこと、それは墓場を訪ねることであった。日本語と中国語というように世代によって母語が違う人たちは墓をどうやって建てるのか。そこにはどんな言葉が記されているのか。興味があったからだ。
集落の外れに訪ねた墓場には、漢字で記されている墓碑が目立つ一方、日本語だけが記されている墓碑もあった。
「ブター頭目 アビンユーラウ之墓」とその墓碑にはカタカナだけが記されている。
漢字だと年配者が分からないから、カタカナにしたのだろう。そのことは察しがついた。だが今後は誰の墓か日本人でないと分からなくなるのではないか。そんな心配が胸をよぎった。
Written Photo by 西牟田靖
「アジア」に残る日本。