【新宿地下伝説】調べても調べても姿を現さない大久保に眠る地下通路【裏マーケットか?】
新宿の地下には、秘密の巨大施設が隠されている!
そんなロマンあふれる都市伝説が流布しているのをご存知だろうか。私は数年前から、こうした新宿地下にまつわる噂の検証にとりつかれてしまった。
ネットや噂に散らばる幾つもの点を一本の線に繋げようと、現地調査はもちろん、文献にあたったり関係者に話を聞いていった末、今では新宿地下伝説のホットスポットである大久保~戸山近辺に引っ越してしまったほどである。膨大な新宿地下の都市伝説と、それらにまつわる私の検証については、本サイとにて何度かに分けて紹介できればと思う。
ではまず、皆さんはこの噂をご存知だろうか。
「大久保駅から新大久保駅の間には、昔から伝わる秘密の地下道が残されている。現在は外国人による地下銀行や裏マーケットとして利用されており、新大久保駅前ビルの有名牛丼チェーン、または某教会地下のファミレスが地下市場への入り口となっている……」
はい、これを読んだあなた、こんなのは荒唐無稽なホラ話に過ぎないと思っただろう。私だってこの内容を100%信じきっている訳ではない。しかし、これが全く根も葉もないデマと言い切れない部分があるのも、また確かなのだ。
「新宿地下の都市伝説」については、2方向からのアプローチがある。一つは「戦前・戦中の旧日本陸軍がつくった秘密地下施設」。そしてもう一つが「徳川幕府の代々将軍が築いた、有事の際の江戸城からの地下脱出通路」だ。今回は後者、江戸城地下通路に注目してみよう。
実際、徳川時代の江戸城に地下への脱出経路があったのは、その図面からみても事実だと言える。敵が攻め込むなどの緊急事態に際して、徳川将軍が城内から外へと逃げ出す脱出ルートを確保していたのは当然の話だ。問題は、その通路がどこまで続いていたのか、という点。普通に考えれば内濠内のどこかに地上出口があったのだろう。しかし、もしかしたら、そこから点々と江戸郊外まで隠し地下通路が掘られていたのではないか……?
徳川家康が江戸城に入った際、警戒していたのは西方からの攻撃だった。江戸城(現・皇居)の西門といえば、言わずと知れた「半蔵門」。そう、家康に仕えた最も有名な伊賀忍者・服部半蔵の名を冠している。家康は万が一の時、この半蔵門から甲州街道を通り、甲斐へと逃亡するルートを想定していた。ならば江戸城(皇居)の西方にあたる現・新宿区内には、当時の忍者たちによって幾つかの地下道が掘られていてもおかしくはないのでは?
そんな江戸城隠し通路の出口と目されるポイントが、まさに新大久保駅と大久保駅の間にある。それは百人町の皆中稲荷神社。
百人町とは、徳川将軍を警護する組織・鉄砲百人組が常駐していたことに由来する。いわば凄腕のSP集団である百人組の成り立ちは「伊賀組百人鉄砲隊」。
つまり伊賀忍者の末裔から始まっており、後に甲賀や根来といったこれも忍者の血筋を継ぐ集団も、江戸幕府の百人組として組織されていく。
そんな彼らが信仰したのが新大久保駅近くの「皆中稲荷神社」。
実は太平洋戦勝の空襲によってその境内が焼けた後、本殿下から地下トンネルが発見されたこともあったという(火坂雅志『甲州街道将軍 脱出計画』)。トンネルの規模は定かではないが、忍者の末裔であり特殊警備隊である百人組ならば、有事にそなえて秘密の地下通路を掘っていたとしても不思議はない。それが江戸城の半蔵門へと(途切れ途切れだとしても)地下で繋がっていると考えてみるのも、あながち無根拠な想像ではない。
私も実際に、地下道への入り口があるという牛丼チェーンやファミレスを探索してみた。どちらも確かに地下へと続く階段が存在するが、それらが江戸時代の地下通路に繋がっていて、いま秘密の地下マーケットとして利用されているのか……それは分からない。
これに限らず、新宿地下にまつわる都市伝説はまだまだ多く存在する。私もそれらについて幾つもの検証を行っているので、また機会があれば別エピソードを発表させていただきたい。
取材・文◎吉田悠軌