ネットウヨク論:番外編~差別と言われない韓国批判「対馬問題」

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現在、在特会らを中心としたいわゆる 「ヘイトスピーチ」 に対して批判が集まっている。その集大成とも言える出来事が 「在特会の朝鮮学校への1,260万円の賠償金支払い」 という判決(※在特会が控訴) なのだが、だからといって日本・日本人が外国に何かされても黙っていなければならないという訳ではない。理由があるなら批判や抗議はして当然である。だが、その方法論に問題があるから在特会は四方八方から非難されているのだ。

という訳で、今回は 「韓国に文句があるならこうやれよ」 というお手本を示そうと思う。取り上げるテーマは 「対馬問題」 だ。

竹島に軍隊を送り込んで不法占拠(というか日本に対する侵略行為) を行っている韓国だが、それはおろか対馬までも自分達の領土だと主張している。

<中央日報より一部引用>

対馬も韓国の領土’で対抗…許泰烈議員

ハンナラ党の許泰烈(ホ・テヨル)最高委員は16日、日本の独島(ドクト、日本名・竹島)領有権明記問題と関連し、「’独島は韓国の領土’と主張するより、’対馬も韓国の領土’と主張するのが効果的な対応方法だ」と主張した。

許氏は「独島が日本の領土という証拠より、対馬が韓国の領土という歴史的な考証と資料のほうが多い」と述べた。

許氏は16日に開かれた最高委員会議で「かつて李承晩(イ・スンマン)大統領も対馬が韓国の領土という主張をしたことがある」と語った。

(中略)

許氏は「歴史的に見ても対馬が日本の領土となったのは明治時代から。 対馬島主は新羅や朝鮮時代まで韓国政府が任命した」とし「その後また日本の情勢が変わり、対馬島主が日本と韓国に同じように朝貢する中立地帯だった」と説明した。

許氏は「独島が日本の領土という論拠より、対馬が韓国の領土という、より大きな論拠と証拠を持っている」とし「’対馬も韓国の領土だ’という主張で対抗するのが良い方法だ」と語った。

 実は韓国が対馬を自国の領土だと主張するのは今に始まったことではない。彼らは以前から「対馬が韓国領だったという証拠がある!」 と言い続けており、実際にウソをホントとすべく活動を続けている。

中でも有名なのは、李承晩政権のGHQに対する 「対馬・竹島の返還要求」 だろう。これはGHQが 「根拠がない」 として跳ね除けたが、韓国は今でも懲りずに草の根運動的に 「対馬奪還作戦」 を続けている。

[対馬は小さな韓国]
(中央日報 http://japanese.joins.com/article/565/71565.html?sectcode=400&servcode=400 より引用)

この記事では、韓国人旅行者が多いので対馬にはハングルを掲げる店が多いという内容になっているが、そもそも日本海側は韓国人の不法侵入(密入国) 問題であるとか、違法操業問題などが絶えない土地である(石川~新潟辺りも同様)。今は単に韓国からの観光客を相手にしているだけかもしれないが、竹島が何をされたかを考えてみると安心していられる状況ではない。韓国の歴史博物館の中には、敷地内に 「対馬は歴史的に韓国領である」 と書かれた石碑が置いてある場所もあるのだが、これは彼らがそれだけ本気なのだという証明になるだろう。

また、韓国の領土的な野心に対して、日本の政府(主に自民政権) はこれまで弱腰外交を繰り返し、なあなあで話を付けようと考えていたようだが、こうした領土問題でうやむや狙いというのは下策である。多少の事件・事故ならともかく領土が懸かった問題なのだから、相手に少しでも「可能性がある」と思われたら、何十年もネチネチと絡まれ続けて当たり前なのだ。捏造や実効支配をされないように、完膚なきまでに相手の主張の矛盾点を突き、こちらの主張を押し通すのが世界の常識である。

では対馬のケースではどうのような主張をすべきだろうか? 幸いな事に、対馬は歴史的に日本の領土だったという証拠がいくらでも残っている。であるなら、まずはそれらを日本人が勉強し、積極的に主張していくべきだろう。ここでは日本・中国・韓国に残る文献を元に、韓国が 「対馬は韓国領だ」 と主張する理由をひとつひとつ 「潰していく」 作業をしてみたいと思う。

韓国側が証拠として持ち出している資料の中で最も古いものは、(私が確認した限りでは) 高麗史(1085年頃) に 「対馬に “勾当官” という役職の人間を置いたという記述がある」 という点だ。ちなみに勾当官というのは要衝を統治させるために派遣した役職だと言うのだが、実はこれにウソがある。中華思想(※高麗は宋の朝貢国) においては、外交官や貿易窓口程度の役職に対しても “支配者的” なご大層かつ仰々しい名称をつけるものなのだ。まずこれを最低限の知識として覚えておかねばならない。

だがこれだけでは不確かなように思われてしまうかもしれないので、次に対馬が韓国(朝鮮半島の国家) の領土だった事実がないという証拠を並べていく。

結論から述べてしまうが、韓国は対馬が歴史的に自国領だと主張するが、実際に信頼できる資料から朝鮮と対馬の関係を見てみると、常に朝鮮(および中国の王朝) が対馬を侵略しようとして大失敗し続けているだけなのである。一時的に占拠されたという事実はあるのだが、毎回あっという間に日本に追い出され、継続して統治していたという実績がひとつもないのだ。

対馬の一部が一時的に朝鮮に占拠されたというケースで最も有名なのが応永の外冦だろう。これは1419年に李氏朝鮮が対馬に侵略軍を送り込んだという一件なのだが、これについて誰でも確認できるソースとしてwikiから引用しておく。

応永の外冦

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BF%9C%E6%B0%B8%E3%81%AE%E5%A4%96%E5%AF%87 

李氏朝鮮では前年に世宗が即位していたが、実権は太宗が握っており、太宗は倭寇撃退を名目にした対馬への襲撃を決め、永楽17年(西暦1419年)6月、227隻17,285名からなる大軍を李従茂に率いさせ対馬に侵攻させた。この時期は対馬の有力者が明などに渡航して留守であることを知り、また同時に朝鮮国内の在留商人らを一斉に捕えて強制労働に当てるなど、防備の弱体に乗じ一般民衆を標的にした周到な計画であったことが知られる。また、太宗は号令の中で「古書によれば対馬は慶尚道に隷属する」と根拠の薄い主張を掲げた。6月17日に巨済島を出航したが逆風ですぐに引き返し、6月19日に再出航している。朝鮮軍は6月20日昼頃に対馬の尾崎浦(朝鮮王朝実録には豆知浦とある)附近へ上陸。一帯の一般船舶129隻を焼き払い20隻を奪い、民家1939戸を焼き払い、また104(実録には首級114)の民衆を虐殺したとされる。しかし6月26日頃には、仁位郡(実録では尼老郡)で対馬側の伏兵に遭い多大な損害を受け、李従茂の軍は尾崎浦まで退却、戦局は膠着状態に陥った。6月29日に朝鮮側は宗氏に対して対馬の属州化などを要求する使者を送るが宗氏に拒絶された。

戦況は対馬側の反撃により膠着し、損害の大きくなった朝鮮側は対馬側の和平提案を受け入れ7月3日に巨済島へ全面撤退した。朝鮮側の被害は日本の資料では死傷者2500以上、世宗実録では6月29日の記録では死者百数十人、7月10日の記録では180人とされている。しかし総数の1%程度の被害で和平を受け入れるとは考えにくく、敗戦と自ら明記していることからも、実際の被害はもっと多かったと思われる。8月5日の記録では日本の戦死者20人に対し朝鮮側が百余名とされており、正規軍での対戦では朝鮮軍は日本軍に歯が立たなかった。このような弱体な有様は、保護された中国人の扱いにおいて「対馬での朝鮮軍の弱小ぶりを詳細に見たことから中国に返還できない」という記録や、朴実が敗戦の罪により投獄され、李従茂が国民への影響を理由に免罪となった記録事からも窺える。

 手短にまとめると、颯爽と攻めて来たのはいいが、勝てたのは一般人相手に奇襲攻撃を仕掛けて虐殺した時だけで、対馬側が軍隊を動かして対抗して以降はボロ負けが続いて追い出されたというお話である。

このように歴史的な事実を元に考えてみると、韓国側の主張がいかに矛盾だらけかがよくわかる。

<韓国の主張>

・対馬に勾当官を置いた(1085年)

・対馬の万戸(役職名) が朝鮮に貢物を捧げてきた(1368年)

・太宗は対馬が朝鮮の属国だったから軍隊を派遣した(1419年)

・対馬島は慶尚道に隷属した(1420年)

上の一覧の矛盾点にお気付きだろうか? 韓国は高麗時代から対馬は朝鮮の領土だったと言い張っているが、ではなぜ自国領に軍隊を送り込んだのだろう? そしてなぜ朝鮮軍が撃退された記述が日本や中国の資料に残っているのに、対馬が朝鮮に降伏して属国になったという話になってしまっているのだろう?

さらに言えば、対馬は殆ど対馬軍だけで朝鮮軍を島から叩き出したのであり、実はそれは朝鮮側の資料にも “敗戦” として記録されている。しかし韓国はこの自国の資料に残る敗戦の記述を決して表に出そうとしない。証拠として高麗史などを持ち出すまではいいが、その中の都合の悪い部分を無視してロジックを組み立てているのだ。

資料という意味でさらに古い記録を持ち出すならば、有名な3世紀後半の魏志倭人伝にまで遡れてしまい、日本(倭国) の紹介として最初に出て来る名前が対馬国(對海國・對馬國)である。(ちなみに対馬国という名称が定まったのは7世紀)

では次に712年に編纂された古事記に書かれている日本神話を取り上げてみよう。

<天地開闢と国生み>

まず天と地がわかれ万物を造ったとされる造化三神が現れた。続いて何人もの神が誕生し、最後にかの有名なイザナギとイザナミが現れる。

イザナギとイザナミは、天の浮橋から海に向かって天沼矛(アメノヌボコ) を下ろして海水をかき混ぜた。その矛から零れ落ちた海水や塩が積もり積もって、最初の “地面” である淤能碁呂(オノゴロ)島が誕生する。

2人はこの島に降り立って夫婦の契りをし、国生みの儀式をしていくことになった。しかし最初はヒルコと淡島(形のあやふやな島) という不完全な子供ばかり生まれてしまい、どうしたものかと上司に相談したところ、「女から誘うのではなく、男がエスコートしろ」 と言われ、試しにイザナギがイザナミを誘ってみたら次々と健康な子供が生まれるようになった。

こうして誕生した島とその順番は以下の通り。

※ただし古事記や日本書紀、さらにはその元になった伝承によって順番や該当する島はマチマチなので、ここでは古事記の記述を紹介します。

淡道之穂之狭別嶋(アワジノホノサワケノシマ)=淡路

伊予之二名嶋(イヨノフタナノシマ)=四国

隠伎之三子嶋(オキノミツゴノシマ)=隠岐

筑紫嶋(ツクシノシマ)=九州

伊伎嶋(イキノシマ)=壱岐

津嶋(ツシマ)=対馬

佐度嶋(サドノシマ)=佐渡

大倭豊秋津嶋(オオヤマトトヨアキツシマ)=本州

これらを大八島国と呼び、これを以って日本の誕生とされる。これらの島々が生まれた順番から、実際の日本の政治的な成り立ちを妄想してみるとかなり面白いのだが、ここでは割愛する。ただ、対馬とは本州よりも早く生まれた由緒正しきイザナギとイザナミの子供だという点だけは覚えておくべきだろう。

しかしこの国生みの話は文字として記されたのが712年な上に、あくまで神話なので、次にもう少し古い歴史的な事実を持ち出してみよう。

・遣隋使、遣唐使のコース

607年に始まった遣隋使だが、合計4回派遣された全てにおいて 【九州~対馬~大陸へ】 というコースが選ばれた。 630年に始まった遣唐使でも、669年の6回目の派遣までは対馬を日本国内の拠点として経由している。 仮に対馬が朝鮮領だったとするならば、なぜ何度も何度も対馬経由のコースを選んだのだろうか? 当時の海の旅は生還率50%程度だったのだから、経由地として外国を選ぶような不確定要素は排除するのが当然ではないか?

・白村江(ハクスキノエ) の敗戦と防人

百済救済のため出兵した白村江の戦い(663年) で唐と新羅の連合軍に敗北した日本は、報復を恐れて九州に防人を置いて国土防衛にあたった(664年)。この時、筑紫や壱岐と並んで対馬にも防人が置かれ、日本の国土防衛の最前線とされた。

このように、韓国側が主張する最古の資料である高麗史(および高麗という国家の成立)より遥か昔から、対馬は日本が統治する土地であり、半島や大陸への玄関口だったのである。

<続く>

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Written by 荒井禎雄

Photo by 竹島問題とは何か/名古屋大学出版会

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