イマドキ日本人のニッチな性癖~サディズム・マゾヒズム「SM」の深層

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 果たして東京ブレイキングニュースに掲載する記事として相応しいのかまったく不明なままお送りする【新春特別講座】だが、今回は根本的な勘違いをしている方が多く目に付く “SM” について講義する。

 さて、それほど深い興味のない方がSMに持つイメージは、まずボンテージファッションの女王様(S)がいて、その目の前に裸で跪いた男(M)がいて、女王様が男をムチでパシパシしばいたり、ロウソクを垂らしたりしながら「女王様とお呼びー! おほほほほー!」ってな具合だろう。

 それがもう少し興味のある人になると、団鬼六の世界のように、どこぞの民宿のような古い造りの薄暗い和室に男女がいて、男(S)が女(M)を荒縄で縛りつつアレコレ……といった、アンダーグラウンドな光景が浮かぶことと思われる。

 これらは全てプレイとしてテンプレ化されたSMの絵ではあるのだが、ではそれがSMの全てなのかというとさに非ず。実はムチやロウソクや荒縄を使わなくてもSMというプレイは成立する。上記のような”アイテム”がフィーチャーされるのは、あくまで「見てわかりやすいから」とか「記号化しやすいから」というだけであって、SMの本質はそこにはないのだ。

 ところで、SMというプレイについて深く考えてみたら、SとMの立場が覆り 「実はM役が場を支配していて、S役はM役の望みを叶えるための奴隷なのではないか?」と思えてしまった事はないだろうか? 私の心の師匠である三代目葵マリーは「SMのSはサービスのS、Mは満足のM」という名言を残しているが、これは真理を突いた言葉であろう。恐らく世間の人々は性癖としてのサディズム・マゾヒズムと、プレイとしてのSMを一緒くたにしてしまうから、それがこのような混乱を招いているのだと思われる。

 確かにSMプレイの根底に流れているのはサディズムとマゾヒズムなのだが、そこだけに囚われ過ぎると真の理解からは遠ざかってしまう。サドやマゾというのは、あくまで”その個人の性癖を指す言葉”であって、視点が1方向しかない。そのため “2人の共同作業であるSMプレイ”を考える場合に歪みが生じてしまうのだ。

 例えばSとM、サディストとマゾヒストは、さも相性よさげにカップリングされて考えられているけれども、実際はサディストとマゾヒストであっても合う合わないが存在する。これは性的関係以前に「ウマの合う人間と合わない人間がいますよねー」という当然の話だ。逆にサディスト同士・マゾヒスト同士であっても、肉体関係込みの仲良しカップルとして成立する場合もある。

 これは個人の性癖である”サディズム・マゾヒズム”と”プレイとしてのSM”と”人間関係”とが、それぞれ別問題だという事に他ならない。別問題というと勘違いされるかもしれないので補足すると、【性癖・プレイ内容・人間関係】の内、どれか1つを抜き出して考えたところで的外れにしかならないのだ。

 もしアナタが本当の意味でのSMを理解したいのならば、「Sの対になるのがMである」という固定概念は捨てるところから始めよう。「SとMなら相性バツグン!」なんて薄っぺらな考え方では本質を見誤るだけだし、「相手がMだからよかれと思ってやったのに……」なんて悲しい結末にもなり兼ねない。

 またSMをプレイとして成立させるためには、どちらかの一方的なワガママであってはならない。お互いに納得した上での行為でないならば、それは単にDV・レイプといった傷害事件の類だ。だからSMプレイの内容は、相手が望むような、また相手が許容出来る範囲内のものでなければならない。これがプレイとしてのSMを成立させるための絶対条件である。Sだから一方的に何をやってもいいわけではないし、好き勝手な命令をしていいという事でもない。また、Mだからといって何でもかんでも受け入れられる訳ではないのだ。 

 書けば書くほど混乱を招きそうなので結論を述べます。SMというプレイは、実は漢字4文字で表現可能な実に簡単なものなのです。

『SMとは”相互理解”である』←復唱すべき

 サディストとマゾヒストがいて、お互いが性的興奮を得るために行うのがSMというプレイではあるのだが、その前に人間として信頼しあえる関係を構築しなければならない。であるから、SMを考える際に「サディストとマゾヒストがいて~~」という前置きをしてしまう時点で大間違いである。 

 「そこに愛し合うカップルがいて、互いに性的な満足感を得たい、そして相手にも与えたいと考え “必然的にそうなってしまった”」 実はこれがSMプレイのあり方なのだ。

 ようは先に愛情があって、信頼しあい、相互理解し、コミュニケーションやスキンシップの手段として、また性行為として、たまたまSMプレイにカテゴライズされるような手法を選んでしまうというだけの話なのである。

 このように突き詰めて行くと、サドだのマゾだのは無関係ではないが、それだけではないという点をご理解頂けると思う。 そこに何があるのかというと、相手に対する愛と、自分を満たしたいという欲求のせめぎ合いである。 これに気付くためには、SだMだという万人が理解しやすいように記号化された概念・イメージは邪魔でしかない。

 例えば10代のカップルが「そろそろ仲を進展させたいなー」と思っていたとする。 しかし女の子の方がいまどき古風で、「結婚するまでは処女で~」 などと考えていたとする。すると男の子の方は女の子を気遣いつつも、自己の欲求もあるため、「じゃあどこまでならヤラせてもらえるか?」と必死で考える。そして両者で相談し合い、尊重し合い、落とし所を見付けようとする。結局はSMと言われているプレイも、これと同じだと言い切ってしまって構わない。

「自分は何をしたいのか? どうすればより性的な興奮を得られるのか?」

「相手はどこまで望んでいるのか? どこまでなら受け入れてもらえるのか?」

 この葛藤と、結論としてのプレイの2つをあわせて、初めてSMが成立する。だからこそ性癖的にはマゾヒストでなく、どちらかというとサディストであったとしても、「相手を悦ばせてやりたいから」とM役に回る事も可能なのだ。

 自分の性癖・欲求と、相手への想いを考慮し、「さあ落とし所はどこでしょう?」というだけの話なのだから、サディスト同士のカップルがお互いに攻め合い、また受け止め合うような関係があったとしても、全く不思議ではない。 これが先ほど述べた「プレイとしてのSMと、性癖としてのサディスト・マゾヒストは別物だ」という理由である。

 しかしSMと呼ばれるプレイの原動力は間違いなくサディズムなりマゾヒズムなのだから、同時に「サディズム・マゾヒズムという性癖があってこそのSMプレイである」とも言えてしまう。だが、ここまでの説明を理解してもらえたならば、この2つは全く矛盾していない事がわかるだろう。

 これは憶測になってしまうのだが、SMがヤケに深いものだ、難解なものだと思われ、様々な混乱を招く要因は、アダルトビデオや風俗産業にあるような気がする。突き詰めてみれば単に人間同士のコミュニケーション手段でしかないと気付くはずなのだが、AVのSM作品やSM風俗の”わかりやすい絵” を知ってしまうと、まるでそれだけがSMかのような錯覚に陥ってしまう。しかもAVや風俗では、SMプレイの根底に流れているはずの”感情”というファクターが欠落してしまうのである。これが世の人々がいまいちSMを正しく理解できない最大の要因に思えてならない。

 そうした”感情抜きの片手落ちのエセSMプレイ”ばかり見てしまうから、「ドSだから何をやってもいい」とか「ドMだからとにかく攻められたい」 といった、自分勝手な単なるわがままや極論をSMだと誤解してしまうのだ。

 SMに限らず、性行為というのは性癖や恥部とされる部分をも曝け出す(&出させる)行為なのだから、絶対に相手が望まぬ事をしてはならない。「自分が満足しつつ、相手にも満足してもらう」という心がけがなにより大事なのである。

 相手が縛られるのが好きなら縛ってやればいいし、目隠しされるのが好きなら目隠しをしてやればいい。尻を叩かれて興奮するなら叩いてやればいいし、ウ○コを塗られて悦ぶなら塗ってやればいい。また、自分がそうしたいのであれば相手と相談して、可能な範囲で満たしてもらえばいい。

 繰り返しになるけれども、プレイとしてのSMは、あくまで人間同士のコミュニケーションの末の結果でしかないのである。だから人はより自分に合ったパートナーを一生懸命探すのだ。

Written by 荒井禎雄

Photo by 花と蛇 [DVD]

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