【小中学校の体罰】こんな体罰が確かに存在していた時代|『オレの昭和史』中川淳一郎連載・第七回
今でこそ体罰は糾弾される存在だが、昭和50~60年代に小中学校に通った身からすると、体罰はなんだか日常的な話だったようにしか思えないのだ。これにキーッとならないでほしい。別に今私が誰かに対して体罰をしているというわけでもないし、時々発生する体罰関連のニュースを肯定しているわけでもないのだから。
それを異常だと思うもよし、「そういえばあったな……」と思った後に「まぁ、今の自分にはさほど影響はないな。まぁ、あの時は痛かったけど……」と思うも良しだ。もしも本気で当時の体罰を問題視するのであれば、30年越しにその教師を裁判で訴えればいい。
小学校2年の時、担任の20代教師・池某は「アポロ」と呼ばれる制裁を課していた。これは宿題を忘れたり、態度が悪かった者を教室の前に出し、その生徒の後ろに立ち、両もみあげ部分の髪の毛の生え際を上に引っ張り上げる体罰である。髪の毛が抜けることもあり、頬骨あたりの肉が動く。そして生徒は「痛い痛い!!」と悲鳴をあげる。
いつしかこの教師の繰り出す「アポロ」の恐怖は全校に知れ渡り、池某の名前にかけ「イケセンの担任にはなりたくない」とクラス替えの際に恐れられる存在となったのである。
そして中学に入った。私の通った東京都立川市の公立中学は数年前までとんでもなく荒れた中学だった。事実かどうかは分からないのだが、廊下にバイクが走っていたほどだという。そして素行が悪いものだから、中学3年生の定番修学旅行先である京都には行かせられず、修学旅行の行先は東北だった。
山形県天童市で将棋の駒の製造工場を見学したり、最上川下りをしたり中尊寺観光をする。東北であればバスでなくては移動さえままならぬため、教師が生徒を一斉監視するために東北が選ばれたのだ。京都に行き、新京極あたりで他の中学校の生徒とケンカでもしようものならたまったものではない。
そういった文化がまだ残っていたものの、私が1年生になった時の3年生が最後の東北修学旅行となったので、ある程度は「荒れる中学校」状態は脱していたのだろう。私の1つうえの学年からは京都修学旅行に戻った。だが、教師達は生徒のことを信用していなかった。ここでは3人の教師を紹介する。
【A・常にヨネスケ的巨大しゃもじを持つ30代男】
サッカー部の顧問だったAは、なぜかヨネスケのような巨大しゃもじをいつも持っていた。私は1年生の9月から2年生の9月まで生徒会会計だったのだが、担当がAだった。役員会の部屋で画鋲を使ったコマ遊びをしているのがバレたところ猛烈に怒られた。
そして、役員会のメンバー全員が廊下に並ばされ、巨大シャモジで全員が尻を叩かれた。聞くところによるとAが顧問を務めるサッカー部ではこれが日常の風景だったという。「お前達はぬるい!」とサッカー部員からは怒られた。
【B・元女子プロレスラーとの噂が出た20代女】
テニス部顧問で体育教師だったBは、アフロヘア―でドきついメークで、大柄だった。常に「ガハハハハ」と笑うのだが、当時人気だった悪役女子プロレスラー・ダンプ松本をアフロにしたような顔をしていたため、いつしか「Bは元々ダンプ松本の極悪同盟の構成員だったらしい」という噂が流れた。
Bの必殺技は尾てい骨を正確にヒットするキックである。何か不快なことがあると、いきなり生徒の尾てい骨にケリを入れるのだ。せめて尻にしてくれればいいのに、尾てい骨にドンピシャで蹴りを入れてくるだけに、生徒の間では恐怖の存在だった。
いつしかBはプロレスラー時代は覆面レスラーだったという噂まで立つほどだった。リングネームは「キラー・絵美」(絵美は仮名。実際のBの名前が絵美だった場合のこと)である。今考えれば、教師になるには教職を経て、そのまま新卒で入るのが常だし、公務員たる存在が女子プロレスラー出身で採用されるのも難しいと考えられるが当時の生徒はB=プロレスラー説を本気で信じていた。
【C・コークスクリュービンタの名手30代男】
なぜかサングラスをかけ、顔面全体がヒゲだらけの社会の教師。Cは『あしたのジョー』に登場するコークスクリューパンチをビンタに適用した「コークスクリュービンタ」を得意技とし、ありとあらゆる生徒たちにビンタをくらわせていた。それは、番長として知られる3年生のD君がくらった時に「Cはマジモンのヤバいヤツだ……」という空気が流れた。
まぁ、こんな感じで「暴力三銃士」みたいな先公(センコウ、と読む)がいたDQN中学だったのだが、私は教師が体罰をためらう瞬間を感じた時がある。
私の代の番長格のE君がある時「おい、肩車しろよこの野郎!」と言い、私に無理矢理肩車をさせた。そしてフラフラと歩いていたところ、立ち入りが禁止されていた渡り廊下の方に歩くよう言われ、そちらに向かったところで、誰かが私の尻を蹴った。すると渡り廊下の中に入ってしまうと同時に、いきなり防火扉が閉まったのだ!
要するに立ち入り禁止の渡り廊下にE君と私を入れることにより、教師からのペナルティを受けさせようと意図したアホがいたのである。防火扉はカギをかけられてしまい、Eと私は「やべぇな…」「こりゃ、怒られるな…」「AかBかC以外の先生が来ればいいな…」などと話していた。
そこにやってきたのが阿部先生である(これは実名)。阿部先生は優しい英語教師で、まだ24歳ぐらいの熱血漢だった。「コラ! お前達なにやってるんだ!」と防火扉を開けたところで阿部先生は驚いていた。
阿部先生は私が勉強熱心だということで非常に優しくしてくれていたのだ。ネットでこういうことを書くと「自慢かよw」と言われるのであまり書きたくないのだが、もっと言うと英語に関しては私は毎回学年でも1位か2位の成績だったのだ。
そして阿部先生は私の勉強法を他の生徒に伝えるなどし、ホメてくれていた。まぁ、東京都立川市のまったく勉強熱心でない公立中学の話なので自慢と捉えないでくれ、頼む。全然たいしたことない。
そんないわゆる「優等生」なのに、番長のE君とともに悪ふざけをしていたということで、阿部先生は明らかに戸惑っていた。他の生徒たちは我々が体罰を食らう瞬間をワクワクしながら待っている。禁止されている渡り廊下への侵入をしてしまったのは事実である。なんらかのペナルティは課さなくてはいけないだろう。阿部先生は「お前達、そこに並べ!」と怒鳴った。
同級生達は楽しそうにこちらを見ている。まずはE君が頬をビンタされた。そして続いては私である。その時、阿部先生とは目が合った。その目は明らかに動揺しており、うつろだった。
その目が訴えていたのは「中川、本当はやりたくないが、規律のためにやるからな……」ということだった。私も一瞬で阿部先生の気持ちは分かり、「やってください! オレのこともビンタしないと示しがつきませんから」と目で答えた。そして猛烈なビンタをくらった。
さて、この騒動から18年後、地元のスナックで行われた同窓会、阿部先生はこのことを覚えていた。そして私に「あの時はごめんな」と言った。何が言いたいかといえば、こうした話があったということを言いたいだけである。
文◎中川淳一郎