ナゼか小学校の給食では全員揃うまで食べてはいけなかった……|『オレの昭和史』中川淳一郎連載・第十一回
筆者がその給食のメニューに疑問を感じていた鷺沼小学校
最近給食をめぐっては、未払いの話題やらアレルギー持ちの子に対し、誤って食べられない食べ物を渡して亡くなる事故が報じられるなどしている。あとは、地元の名産品であるカニが大盤振る舞いされる様子が報じられるなど、様々な配慮があったり豪華になったりしている。とりあえず、個々の生徒に対する配慮は感じることができるような時代になったのですね。
さて、昭和末期の小学校の給食についてここでは振り返る。
私が小学1年生~4年生まで通ったのは川崎市立鷺沼小学校で、5~6年生は立川市立立川第八小学校だ。まず振り返りたいのは1981年~1984年の鷺沼時代である。この頃、米は一切出なかったのである!
諸説あるが、アメリカが余り過ぎた小麦を日本に押し付けるために子供のうちからパン食に慣れさせる、といった話を聞いたことがある。Wikipediaによると、1976年から米飯給食が開始したとあるので、鷺沼小学校ではその後8年間はその流れに乗っていなかったということになる。
現在の学校がどうかは分からないのだが(子供がいないのでトンと事情が分からない)、当時の私は給食の食べ方はアホだと思っていた。班ごとに並び、給食当番からスープやおかずをすくってもらうのだが、「全員のメシが揃うまで」食べることができなかったのである。
大鍋に入ったクリームシチューやらカレーシチューであればそれなりの温かさは維持できているものだが、安っぽいステンレスの冷たい器に移されたシチューなど数分もすれば冷めてしまう。配膳が終わるまでの約10分間、先に食べ物を受け取った生徒は給食が冷めるのを待ち続けることとなる。こんなもんはさっさと食べてしまうに限る! 給食がマズいものと思うようになってしまうではないか! 未だにそんな全体主義的なことをやっているのであれば、教師は「先に配膳された班からさっさと食え」と指導してやれ。
自分は米の方がパンよりも好きで、麺類もパンよりは好きだった。だから、鷺沼小学校で米が一切出ないのが苦痛で仕方なかった。パンよりは好きなソフト麺、炒めビーフンが出る日は救われたと思ったものである。だが、立川に引っ越した時、週に1回だけ米飯給食があり、サンマの蒲焼やらパエリアなどが出て昼ご飯に米を食べられる幸せを感じたが、鷺沼小学校のあの意地でも米は出さない、という姿勢はなんだったのか今でも理解に苦しむのである。
それでは今、鷺沼小学校ではどんな給食を出しているのか。川崎市の教育委員会のHPによると、鷺沼小学校が属する宮前区の給食は2月の場合、19回の給食の機会があるが、パンが8回、米が11回だ。それにしても、「ひじきごはん(ごはん)、ぎゅうにゅう、いかのよしのあげ、のっぺいじる」ってなんじゃこりゃ! 凝ってるなぁ!
しかし2月1日の「ロールパン、ぎゅうにゅう、ポークビーンズ、はくさいとしめじにのスープに」と20日に「きなこパン(はいがコッペパン)、ぎゅうにゅう、ポトフ、ボイルやさい、わふうドレッシング」というのは、我々がいた時と同じメニューではないか! 未だに「ポークビーンズ」という給食以外では食べることのないものを出し、単なるお菓子だろ! というツッコミを入れたくなる「きなこパン」があるというのは実に感慨深い。
かくして、川崎の小学校でも無事米飯給食が定着したわけだが、立川に引っ越した私がなぜかバカにされたのは教師からである。立川では前述の通り、週1回の米飯給食があったのだが、教師は「中川君、川崎ではご飯給食なかったから立川に引っ越してきて良かったでしょ~」と言ったのだ!
確かに給食で米を食べられるのは嬉しいことではあるものの、先生! 教育の面において誇るべきはそこではないだろ! とツッコミをいれたくなった。来週は「川崎VS立川」の「お受験競争」については書こうかとも思うが、お上品な川崎に対するマウンティングをまさか立川の先制が給食で仕掛けてくるとは思わず10歳の少年は先生のそのお子様っぷりに嘆息したのである。
文◎中川淳一郎