福島第一原発事故 10年目で出て来た新事実 「フクシマ・フィフティー」のアナザーストーリー 第3回(インタビュアー│奥山俊宏、久田将義)

マサ:回ってたんだけど、再起動ができなかったっていう話だったのかな、とにかく回ってたんだけどダメになったっていう話があって。

奥山:実際に現場に、タービン建屋の地下でご覧になったわけですよね、12日の朝に。

マサ:そうです、行ったんです。

奥山:それはどんな様子ですか?

マサ:そのときはぼくらは構内は構内専用のPHSで連絡取り合ってるんですけど、PHSの基地局も壊れちゃったんで。12日の朝にはまだ津波警報が出てるし、余震もまだ続いてる状況なんで、そこの連絡手段がない、と。タービン建屋に入っていっちゃうと、連絡が取れなくなっちゃうっていうことで、じゃあどうするんだ、と。じゃぁ、階段ごとに人を置いて、外まで。津波警報とかが来たら、声で知らせようっていう話になってて。

【福島県では、2011年3月11日午後2時49分、気象庁から大津波警報が出され、津波の予想高さは当初、3メートルとされたが、午後3時14分に6メートル、午後3時半に10メートル以上と引き上げられた。それが翌12日午後1時50分まで維持された。「大津波」から「津波」へと警報が切り替えられたのは12日午後8時20分だった。つまり、彼が1号機タービン建屋地下に入ったときはまだ大津波警報が発令されたままの時間帯だった。】

当時は作業員の「基地」だったJビレッジの館内。作業員への注意事項が書かれていた。

マサ:で、東電さんが2~3人ついていって、ぼくは実際つなぐほうをやってたんですけど。そしたらまさに余震が来て、「危ねえ危ねえ!」って話が伝達してきて。だから12日の朝にちゃんとできてない状況で、中途半端な状況で上がっちゃったんです。

奥山:「上がる」っていうのは、重要免震棟に戻る、ということですね?

マサ:そうです。「今、余震が来たし、津波警報が出てるから一回戻って」っていう話で。だから4人かな、そのとき。うちの人間がふたりと、東電さんが3人かな? たしか5人だったと思うんだけど。で、つないでいる僕ら、うちの人間が2人。で、1、2、3と、こういたような。で、伝達してきて、「いったん上がれ」って言われて、みんなで上がってって、ちょっと高台のところで様子を見てて。そのときにぼくは線量計が気になって、今ここどうなんだろうって思って。で、見たときに下ひと桁がすごい勢いで上がってたんですよ、デジタルが。

奥山:見てるあいだに?

マサ:見てるあいだに。ブワーッて上がってって。7、8、9、10みたいに上がってって。「うわ、ダメだ! ここにいちゃダメだ!」。津波の様子見てる場合じゃなくて、「車に乗って帰ろう!」って言って、すぐそのまま免震棟に。

奥山:上がってたのは1号機の建屋の……。

マサ:1号機の建屋から少し坂を上った、海が見えるようなところにすこし上って。あそこの上にちょっと上って、そこで見てたんですけど。そのときたまたま気になったんで、それ(線量計)を見て気づいたんで、すぐ。

奥山:12日の朝、日が昇った時間帯?

マサ:あれは、日が昇ってましたね。

奥山:その頃は、1号機、線量が高くて、建屋の中に入れるか入れないかっていう状況のころですよね。

マサ:だけど、そういう情報はないんですよ。その当時って、11日に地震が来て、その次の日の話ですから、たとえば放射線管理の人間がいるとか、そういう状況では全然ないんで。

奥山:それは一応マスク着けて。

マサ:一応マスク着けて。だからそこの場面で自分たちが、いつもであればどんなときでも、新しい仕事なりなんなりするときには、その状況、行くところの場所がどんな線量があるとか、どんな状況かっていうのは必ず放管員が最初に行って、事前サーベイというものをやって、情報を得て、じゃ、それだけの線量があるんだったらどんな作業の方法があるかっていうことをするんですけど、そこはそういうことやってる余裕が全然ないんで、とりあえずアラームだけ持って、とりあえず行って。(次回に続く)

〈インタビュー@奥山俊宏(朝日新聞編集委員) 文責@久田将義(TABLO編集長)〉