海施餓鬼|川奈まり子の奇譚蒐集・連載【十】

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 子どもの頃、夏といえば父が勤める大学の学生寮に家族と長逗留するのが常だった。寮は海辺にあり、そのせいか長じてからも「海と山、どちらが恋しいか?」と訊ねられたら「断然、海」と答える根っからの海派になった。

 諸事情あってこのところ行けていないが、一昨年前までは、夫や子どもを巻き込んで海に囲まれた離島を頻繁に訪れていた。
 ことに子どもが幼児のうちは旅行の時期を学校の休みにあわせて選ぶ必要がなかったから、春先から沖縄県の離島を訪ね、夏の終わり頃まで延々と海で遊んでいたことも再三あった。

 そんな折、沖縄県の島ならではの行事に行き会ったことがある。

 4月中旬の朝、海辺を訪ねたら、島民総出かと見まごうほど大勢の人々が浜に出て潮干狩りをし、砂浜で煮炊きをしたり持ち寄った重箱を広げたりしていた。
 午前中から皆でご馳走を食べ、三線を掻き鳴らしてモーヤー(カチャーシー)を踊っているのだ。なんの祭りかと思った。

 最初は、海開きの行事かもしれないと推測した。一般的には六月以降に行われるものだと思うが、この辺りでは4月には快適に海で泳げるようになるからだ。
 しかし道行く人を呼びとめて「海開きですか?」と訊ねてみたら、「あーい、きゅーやサニズぬむらむぷーるしゆぅ(いいえ、今日はサリズの村祭りをしています)」という答え。

 サリズ。
 まったく聞いたことのない行事なので少し調べたところ、沖縄県全域と鹿児島県の島嶼部に特有の、蛇と女の異種婚姻譚に由来した祭りだということがわかった。

――ある女が人間の男に化けた蛇と恋仲になって夜ごと逢引していたが、隣家の夫人が彼の正体を見抜いて彼女に助言した。そこで女は恋人が眠っている隙に長い糸をつけた針を彼の衣に刺しておき、彼が帰る際、糸をたぐって後を尾けた。そんなこととも知らず、男は山の方へ歩いていき、やがて蛇族が棲む洞穴に辿りつくと大蛇の姿に戻って潜っていった。女は物陰に隠れて蛇たちの会話に耳をすまし、恋人だった大蛇が人の女とつがったことを仲間に自慢するのを聞いた。そのとき大蛇に向かって物識りそうな一匹が語って曰く、「3月3日に海の砂を踏むと、人と蛇の赤子はサラサラとおりてしまう」。そこで女は3月3日に海浜(うまはま)を下りた。すると、濡れた砂を裸足で踏むやいなや、無数の仔蛇が胎内から駆けおりて、引き潮に流されていった――

 この伝説が元になっているため、沖縄本島や奄美大島では「浜下り(読みはハマウリ、またはハマオリ)」、私が滞在していた八重山諸島では「サニズ」などと、呼び方は地域によって異なるが、どこでも旧暦の3月3日(今年2018年は4月18日)に、女性の健やかなることを願う雛祭り的なお祝いをするのだという。

 女が蛇の子をおろしたことを、すなわち穢れを祓ったことだと解釈すれば、女性の健康、ひいては子孫繁栄や五穀豊穣を願う村祭りになるのは道理である。

 ただし、長い歳月のうちには祝い方などに地域差が生じた。例えば海人(うみんちゅ)の多いある島では、海辺でユタが祈祷したり魚をかたどった大きな神輿を海に担ぎ入れたりする海の安全祈願祭を兼ねた大がかりな祭祀となり、またある島では村人が家族単位でピクニックと潮干狩りを楽しむ素朴な行事に落ち着いている。公民館で演芸大会と懇親会を開催するところも多い。

 海施餓鬼(うみ・せがき)のように、海没者の霊をこの日に弔う島もあるという。

1年前とは別人のように大人びていた従姉

 
 サリズ(浜下り)の伝説と偶然にも符合する、海施餓鬼にまつわる体験談を聞いた。舞台はうってかわって関東の千葉県某市。太平洋に面した漁業の町だ。

 牧田早苗さんは、子どもの頃、夏休みの最初から終わりまでのほとんどを、その海辺の町で過ごす習慣だった。母方の実家がそこで代々漁業を営んでいたのだ。早苗さんが幼い頃は、祖父もまだ船に乗って漁に出ていた。
 早苗さんの母の兄と弟は祖父母と同居していて、彼らもまた漁師だった。

 弟の方は当時も今も独身だが、兄は20歳で結婚して、早苗さんが物心つく頃には妻子がいた。子どもは3人で、早苗さんはひとりっ子なので、このいとこたちを自分のきょうだいのように思いながら育った。
 いとこは上から順に女・女・男。真ん中の女の子が早苗さんと同い年で、男の子が2つ下。長女は早苗さんより4歳年上で、弟妹や早苗さんの面倒をよく見る、朗らかで優しい子であった。
 早苗さんは幼い頃からこの従姉を「お姉ちゃん」と呼んでたいへん慕っていた。

 しかし早苗さんが小5の夏休みに訪ねると、この従姉がいつになくふさぎ込んでいた。家の2階にある自分の部屋に籠ってばかりで、去年までのように構ってくれない。寂しく思った早苗さんは従姉の変心の原因を探ったが、伯母は「お姉ちゃんも難しい年頃だからね」と言い、他の家族も「わからない」とか「反抗期だから」などと答えるばかりだった。

 年頃や反抗期と言われてみると、たしかに、従姉は急にすらりと背が伸びて、1年前とは別人のように大人びていた。自分たちの子どもっぽい遊びに加わるのはもう不自然なことになってしまったのかもしれない。そう思って納得するしかなく、早苗さんは下の2人のいとこたちと遊んでいたのである。

 やがて8月10日の「灯篭流し」の日になった。これは日蓮宗本山・誕生寺というこの町随一の大寺院が200年以上前から行っている追善供養で、「海施餓鬼会」とも呼ばれている。
 当初は、1703年12月31日に発生した元禄大地震による津波の犠牲者を慰霊するために誕生寺が始めたが、戦後は戦没者の慰霊もかねるようになり、さらに現在では先祖供養・水難事故死者など有縁無縁の諸霊の追善供養という位置づけに変わって、地域の恒例行事の性質も持つようになったのだという。

 早苗さんは、皆でこの灯篭流しを見物するのを毎年楽しみにしていた。

 寺の本堂で法要がなされた後、亡き人々の俗名や戒名、施主の名前、経文の一節などを書き記した灯篭を積んだ船が幾艘か、遠浅の海に滑りだす。600基を優に超える灯篭に船上でロウソクの火を灯して洋上に放しはじめるのが夜の7時頃。8月10日のその時刻は、まだたそがれの残滓が水平線を紫や茜に滲ませている。灯篭が流されるに従って辺りに闇が満ちてゆき、お終いの方で、ひとしきり花火が打ち上げられる。
 老いも若きも惹きつけてやまない、幻想的で美しい光景だ。そこへ檀家衆が唱えるお題目が潮騒の伴奏と共に被さると、清浄でありながら暗く妖しい摩訶不思議な雰囲気が加味されて、此の世ならぬ魅力が生じた。

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 もっとも、灯篭流しでお題目を唱えるのは年寄りが多く、せいぜい中年までで、若者や子どもは目の前の景色に夢中になる傾向があった。早苗さんといとこ3人も、毎年、アイスやかき氷を食べながら灯篭流しと花火を眺めて歓声をあげていたものだ。

 ところが、今回は「お姉ちゃん」もお題目を唱えだした。去年までは「南無妙法蓮華経」の「な」の字も言わなかったのに、いったいどうしたことだろう、と早苗さんはとても驚いた。
 けれども従姉はひどく厳かな表情で手まで合わせて祈っており、あまりにも真剣なようすに早苗さんは気圧されて、一切、話しかけることができなかった。

 従姉が姿を消したのは、それから3日後の夜のことだった。

別室に呼ばれて従姉の秘密を聞かされた

 午前3時頃、寝ていた家人が全員目を覚ますほどの強い風が、突然、家じゅうで吹き荒れたかと思うと、どの部屋にも隅々にまで濃い潮の香が満ちた。
 祖母は「風と一緒に、お題名(お題目。南無妙法蓮華経のこと)が聴こえたっぺ!」と言って祈りはじめた。確かに奇跡じみた現象には違いなかったが、もう少し現実主義なその他の大人たちは突風の正体を探して、各部屋を点検してまわった。

 すると間もなく、従姉の部屋の窓が大きく開け放たれていることがわかった。そこから屋根づたいに表に出た形跡があり、従姉の姿が見当たらないことから、いつのまにか従姉が家の外に抜け出したことが一目瞭然となった。

 しかし家族全員で手分けして近所を探しても従姉を見つけられなかったので、朝の10時頃、伯父と伯母は警察署に従姉の捜索願を出した。
 家の中が騒然として、とくに伯母が取り乱しているため、早苗さんは急遽、東京にある自分の家に帰ることになった。
 でも、その時点では、伯母以外は皆、「お姉ちゃんは家出をしたのだろう」と軽く考えて楽観視していた。
 伯母だけはひたすら泣いていたが、そのわけを想像する者は、まだ誰もいなかった。

「……あれから20年近く経ちましたが、従姉の行方は未だにわかりません。ただ、失踪から間もなく従姉が履いていたのと同じサンダルを伯父の漁船が偶然引き揚げて、彼女が入水自殺をした可能性が濃厚になりました。結局いなくなってから7年後に、従姉は亡くなったものとして身内だけで弔いました。
 そして、サンダルが片方ではなく左右とも揃って網に掛かったこと、それを見つけたのが従姉の父親である上の伯父だったことが、あの夜の不思議な突風や、祖母が耳にしたお題目と合わせて、一種の虫の知らせだろうとして親戚の間で語られるようになったのです」

 早苗さんは、従姉の葬儀の際には、すでに高校生になっていた。式の直後、伯母と母に別室に呼ばれて従姉の秘密を聞かされたのは、早苗さんがそろそろ性的な事柄も理解できる年頃になったと母と叔母が判断したからだろうか――。

 聞けば、あの年、夏休みの直前に、従姉は海で流産していたのだった。

 友人たちと海で遊んでいたところ、急に出血し、生理かと思ったが、あまりにも腹痛が激しかったので、帰宅して伯母と病院に行って診てもらったら、それまで妊娠していたことがわかったのだ。

 妊娠10週目の早期流産で、すでに胎児は流れていた。病院では胎内から残留物を取り除く措置が行われ、その日のうちに家に帰された。
 以後、このことは伯母と従姉だけの秘密になった。

「伯母は何回か、流れた赤子の父親が誰なのか、従姉を詰問したそうです。するとその度に従姉は、『海の神さまの子だ』と答えたんですって。
 海の神さまに誘われて、春から夏の初め頃まで、何度か船に乗せてもらった。そこで妊娠したのだろうと従姉は話していたそうです。
 神さまとは誰なのでしょう?
 伯母は一時は子どもたちを連れて家を出ることを考えたと話していました。
 でも、思い直したそうです。
 私も、たぶん、どこか知らない人の船に従姉は乗ったのだと思いたいです。
 従姉は、まだ中学校2年生でした。素朴な田舎娘だったのです。都会から釣りやクルージングを楽しみに来る人たちは実際にいますから……」

 真実はどうであれ、海は少女が宿した命を浚ってゆき、少女の魂をも波の彼方に連れ去ってしまった。(川奈まり子の奇譚蒐集・連載【十】)※写真はイメージです