昭和の少年たちに影響を与えた「少年ジャンプ」広告がなければドラクエはヒットしてなかった!?|中川淳一郎
3G……こう聞いたら「1代前の携帯通信の規格のことだね」なんて思うかもしれないが、1984年の少年の間ではこの言葉はまったく別の意味を持っていた。かつては「お正月映画」という言葉があり、12月から1月に公開される大作をそう呼んでいたのだ。この年は「ゴジラ」「グレムリン」「ゴーストバスターズ」の3つの「G」がタイトルの頭につく映画が公開前からおおいに話題となっていた。
当時のエンタメにおいては週刊少年ジャンプの巻頭の特集記事が重要な意味合いを持っていた。今になって考えればジャンプの巻頭のあの記事はタイアップ広告であったことは分かるのだが、当時は記事と広告の差も分からず貪るようにそれらの記事からジャンプを読み始めていた。この「3G」が3週間連続だったか1週間でまとめてだったかは分からないのだが、ジャンプの巻頭に登場した。
いずれも面白そうな映画だった。だが、当時の少年達は「どれを選ぶか」によってそのセンスが問われ、クラス内での評価も分かれるようになっていた。邦画はダサいとされていた時代だったため「ゴジラ」は除外。よって、「グレムリン」派と「ゴーストバスターズ」派が圧倒的に多かったと思う。しかしながら、ゴーストバスターズには軽快なテンポの主題曲があり、それが人気で「ゴーストバスターズ」こそが我がクラスではお正月映画の大本命だったように感じられる。
その後もジャンプではアーノルド・シュワルツェネッガーの「プレデター」やシルベスター・スタローンの「ロッキーIV」などの広告を出し、いずれも我々の心に火を点けた。そんな中でも最高峰に位置する広告がなんといっても1986年に登場した「ドラゴンクエスト」だろう。
「ファミコン神拳」とドラクエの大ヒット
少年ジャンプの関係者もかかわっていたこのゲームだが、発売の随分前から大特集を組み、徹底的にRPGなるジャンルの素晴らしきゲームが出ると煽った。そして、ドラクエは大ヒットした。ジャンプの「ドラクエ推し」は「II」発売の時も「III」発売の時も続いた。
巻頭ではなく、モノクロページだったのだが「II」では「いなずまのけん発見バトル」などのコンテストが行われた。低レベルで発見できた人が勝利する、というものである。「III」では「おうごんのつめ発見」が課題となったりもした。
もちろん、「ドラゴンクエスト」自体は素晴らしいゲームだし、1年と置かずして登場した「ドラゴンクエストII」がさらに広大な大地かつ素晴らしいデキだったため、同シリーズは初代から32年も続く人気シリーズとなったが、初期のジャンプの広告がなかったら果たしてここまで来たか……なんてことも思うのだ。
一連の広告の読者は、「オレらの大好きなジャンプ編集部がここまで推しているんだから、絶対面白いに違いない!」と信じ込み、さらには「ファミコン神拳」という巻頭の人気企画の「ゆう帝」と「ミヤ王」「キム皇」がドラクエを推すばかりかゲーム内にも登場するのだからこれは買うしかないではないか。ちなみに「ゆう帝」はドラクエのストーリーを担当する堀井雄二氏のことである。
この頃は「ステマ」なんて言葉もなく、純粋に広告をコンテンツとして楽しんでいたのだなァ……、なんてことを思う。いや、子供だったからなんだって楽しかったのかもしれない。多分そうだろう。
あと、ジャンプの広告(というか、少年雑誌全般)で覚えているのが、「特選世界のアイデア品」という商品がズラリと並ぶもの。腕を鍛える重りの「パワーリスト」やら自転車のスピードが速くなる「ハイピッチ」、歯が白く綺麗になる「セッチマ」などに加え、プロレスのマスクなども売られており、これらが欲しくてたまらなかった。だが、親は「こんなもんは買ってやらん」と言い買ってくれず、周囲でもこれらを持っている友人はいなかった。(文・中川淳一郎 連載「俺の昭和史」)