人と一緒にいたいのに人と一緒にいることが苦手。ふっと意識が自分だけになる「自分スイッチ」|成宮アイコ・連載
ふっと意識が自分だけになる「自分スイッチ」
思えば、小学校のころからそうでした。
「2組の転校生、なまってるけどかっこいいよね」「音楽の先生、すぐ怒るし、むかつかない?」「新しい文房具屋さん見つけたんだよ」
近所の女の子たちと、集団登校で盛り上がっている途中、なにげないことをきっかけに、たとえば道が日陰から日向になるとき、アスファルトがふっと明るくなったあの瞬間に、「自分スイッチ」のようなものがパチンと押されてしまうのです。
『あ、そういえばきのう観た映画に出てきたのってこんな天気だったよな、横の草むらを降りたら川があって、知らない洞窟があったりしてさ、そしたら主人公と同じように中に入れるかな、こわいかな、あーでも今日のスニーカーじゃ水に濡れちゃうからだめだな…だけどこのスニーカーかわいいよな、すごくお気に入りだなー。そういえば他の色もかわいかったな、また見に行きたいな』
気づくと頭の中でひとりでしゃべり続けて(正確には考え続けて)しまいます。その間、無言。どうしてそれを会話にできないのか、わかりません。
知らない人の家の玄関にさげられていた「Welcome」のプレート
道端に突っ立ったままの自分にハっと気づき、あわてて前を向くと、みんなはもうだいぶ先を歩いています。いけないいけない、と列に戻り、歩きはじめます。そしてまた、クラスメイトや先生のうわさばなし、まわし読みをする雑誌のはなしに加わります。
“交換ノートで使うおそろいのペンをどうするか” という自分たちの結束を強める大事な話しをしながら、友だちの背後に、玄関のドアに「Welcome」のプレートがぶらさがった家が目に入りました。ドアのわきには陶器の犬の大きな置きものがあり、窓には7人の小人のぬいぐるみが並んでいるのが見えます。レースのカーテンがかかっているので、家の中の様子は見えません。
『この家にはどんなひとが住んでいるのかな、わたしの家もこんな感じだったら楽しかったのかな、祖父と家でふたりきりになると、なんでもないことで怒り出して殴られるから、誰かが帰ってくるまで家には入らないで待ってるのめんどくさいな。向かいに住んでいる人がときどき様子をうかがってくるんだよなー、やな感じ! 好きな絵本のカロリーヌちゃんは、こんな家に住んでいるのかな、「Welcome」のプレートとかさげてみたいなぁ、うちは全然ウェルカムできないもんな』
一生懸命意識を集中して会話をしていたはずなのに、頭の中は、「Welcome」のプレートと、その家に住むひとたちのことでいっぱいです。
パラレルワールドにいる自分の妄想
ウェルカムがとてもできない家で育ったわたしは、荒れている家庭環境がデフォルトだったので、”家族” というSFマンガだと思っていた『ちびまる子ちゃん』がエッセイマンガだと知ったときは衝撃をうけ、他の家の様子がとても気になるようになりました。特に、知らない家族の話、知らない人の生活の話を聞くのがとても好きでした。
ある時期は、家のポストに投げ込まれる住宅のチラシをコレクションしていました。チラシの間取りを眺めて空想の家族を想像するのです。ここがわたしの部屋で、ここにポスターを飾って…。
そんなこともあり、柴犬の親子を飼っているご家族のブログを、かれこれ10年近く読み続けています。
まいにち山へ散歩に行ったり、夏の散歩は早起きだったり、ガーデニングでたくさんのバラを育てたり、娘さんが進学で家を出たり、その間に家族に猫が仲間入りをしたり、娘さんが学校を卒業して実家に戻ってきたり…。海外旅行や派手なイベントなどは出てこない、穏やかでなにげない毎日だけが綴られています。
その中で、人間も犬も家も年を重ね、ブログを書かれているご本人の悩みも少しずつ変化していきます。子犬のこと、猫と犬の同居のこと、娘の仕事のこと、自分の体調のこと、老犬のこと、仲良しの家の犬たちのこと。それらを何年もずっと追って読んできました。どの記事も、家族のあたたかみ、穏やかで変わりない毎日のありがたみを感じさせてくれるので、娘さんが進学で家を出るときなんて、泣きながら読みました。
コメントすら一度もしたことがない、赤の他人なのに。
穏やかな幸せの経験値が足りない
実はいちど、文章を書くことも、詩の朗読ライブで各地をまわることも、生きづらさのことに関わることも、全部やめようと思ったことがあります。「結婚をして家庭を持ってお母さんになるんだ、ガーデニングをしたり、パンや味噌を作ったりして、ずっと地元で暮らすのだ」と決意をしたのです。
決意と言っている時点で、心のそこから望んでいるわけではないことがにじみ出ているのですが、とにかく、そういう人に強烈な憧れがあり、そんな自分になりたかったのです。
しかし、実際、いざ平穏な場所に身をおこうと努力をすると、その穏やかさに押しつぶされそうになりました。強烈な不安、ざわざわするような焦燥感、落ち込んでいく気持ち。自分の過去を振り返っても、穏やかな幸せという経験値が圧倒的にたりなかったのです。第7回の「#わたし、おかあさんになれない」で書いたように、わたしはおかあさんになることが、どうしてもできそうにありません。
自分の理想の幸せと、実際に自分が感じる幸せには、誤差ではすまないような大きな溝ができていました。
その捨てきれない理想を、自分とはまったくかけ離れた誰かの人生が綴られるブログに自己投影をし、読むことで満たそうとしているのです。パラレルワールドの自分がそこにいるかのように。
理想の幸せよりも、自分が感じる幸せを
それなりに人間関係が構築できるようになった今でも、「自分スイッチ」が入ってしまうことがあります。
数年前、お昼休みの時間が決まっている仕事をしていたときには、”同僚と一緒にランチに行く” ということがしたくて、何度か混ぜてもらったことがあります。コンビニにデザートを買いに行って、「どのヨーグルトにする?」と話して、「ああ、こういうことがしたかったのだ!」とウキウキして、つい理想の幸せを試してみたくなって、なりたかった自分を演じてしまいます。でも、またパチンと例のスイッチが入ってしまうのです。気づけばなんの話題をしていたのか、迷子になってしまいました。
いまは、まったく自由な仕事をしているので、自分のタイミングで自分の好きな場所でお昼ご飯を食べます。中華屋さん、ファミレス、カフェ、イートイン…仕事や習いごとの話題で盛り上がっている隣のテーブルを横目に、ひとりでビビンバを混ぜながら、これでいいのだと思います。
食後のコーヒーを飲みながら、柴犬のブログを読んで、大好きなプロレスチームの試合結果を確認。時間があったらDSをして、ファミ通.comで新作チェック、忙しい日はメールチェックと返信をしながら。今日は余裕があったので、友だちに、「なんだか、またどうぶつの森をはじめてしまいそうです」とラインを送りました。
その間、ずっと無言。自分スイッチはオンのままです。
うっかりしていると1時間がすぎそうで、お会計に向かいます。隣のテーブルにいた人たちも、慌てて席を立ってわいわいと走って行きました。みんな楽しそうです。うんうん、と思い、やっぱりこれでいいのだともう一度思います。ポケットの中でラインが来た音がします。「また都合のよいときに遊びましょう!」
人と一緒にいたいのに人と一緒にいることが苦手で、人のことが好きなのにひとりでいることが好きで、いつもみんなでワイワイしていたいけれどみんなでワイワイするのがどうしてもできない。そして気づきました。誰かが楽しそうにしているところを見ていること、楽しそうにしている人がいる空間にひとりでいることでも、心はわりと満たされています。
わたしは、理想の幸せよりも、自分が感じる幸せを優先することにしました。
幸せは、それぞれに合う形があります。
ずっと誰かと一緒にいることが落ち着くひと、時々だけそれをしてみたくなる人、ずっとひとりでいることが好きなひと。自分は○○だからそうはなれない、と思っていても、いつか正反対の自分になるかもしれません。
わたしもいつか、誰かのブログをなぞらない自分自身として存在することができるでしょうか。どんなに無理をしても、あのブログの登場人物にはなれないし、誰かのストーリーに沿わない、自分を生きることができるといいなと思います。そして、できればそのときは、玄関のドアに「Welcome」のプレートをさげていられるような毎日を作っていたいのです。
(成宮アイコ・連載『傷つかない人間なんていると思うなよ』第二十二回)
文◎成宮アイコ
https://twitter.com/aico_narumiya
赤い紙に書いた詩や短歌を読み捨てていく朗読詩人。
朗読ライブが『スーパーニュース』や『朝日新聞』に取り上げられ全国で興行。
生きづらさや社会問題に対する赤裸々な言動により
たびたびネット上のコンテンツを削除されるが絶対に黙らないでいようと決めている。
2017年9月「あなたとわたしのドキュメンタリー」(書肆侃侃房)刊行。