嫌な記憶に癒されてしまうから幸せになれない。「なつかしい」と聞いて思い浮かぶもの|成宮アイコ
懐かしいと聞いて思い出す世界には、だれもいない
「なつかしさって、やっぱり感情というだけでは片付けられないものかもしれないよね」
インドカレー屋さんでナンをちぎりながら、机をはさんだ向こう側に座っていた彼はポツンと言いました。
Rooftopというニュースサイトで書いている連載 「『なつかしい』という感情はもう少し手加減してくれないと困る」 を読んで、「おもしろかった」と言ってくれたことから、かれこれ1時間ほどわたしたちは、「なつかしさ」について話していました。
「じゃあ、なつかしいと聞いてパっと思い出すものは?」
質問をしながら、食べきれないナンをお皿のはじに置き、わたしは実家の近くにあったスーパー銭湯のことを思い出していました。まだ家族がそろっていたころに、たびたび連れていってもらったスーパー銭湯。
指についたカレーの匂いが、あの銭湯にあった「薬草風呂」の匂いに似ていたからです。おうどいろに近いきいろいお湯は、見た目もカレーに似ていたので、「カレー風呂」と呼んでいました。
「自分にとってのなつかしさは、やっぱり学生時代のヒッチハイクとかキャンプのこととか、楽しかったことかな。アイコちゃんはどうなの?」
「カレー風呂」の記憶から、インドカレー屋さんに意識が戻ってきたわたしの頭に、パっと、2つの風景が浮かびました。
ひとつは、青空のポストカードを表紙にいれたビニール製の手帳に、0.3ミリのハイテックCで毎日ぎっしり書いていた日記。もうひとつは、小学校の校舎。休み時間にこっそり隠れていた屋上に続く緑の階段、そして指でぽろぽろとはがせた白い壁です。楽しかったことだってあったはずなのに、なにも思い出せません。
わたしにとって、「なつかしい」で思いつく記憶は、自分のほかにはだれもいない風景でした。
なつかしさは、少し理性をおかしくする
旅行先の駄菓子屋で、さいきんスーパーやコンビニではすっかり見なくなったなつかしいお菓子が売られていると、つい買ってしまうことがあります。
とくべつ好きなお菓子というわけではなかったのですが、なつかしいというだけでありがたみがあり、あらゆる角度から写真を撮っては、「なつかしい!!!!!」と興奮したコメントをつけてインスタにあげてみたりします。
こどもの頃に見ていたアニメや人形劇のグッズが再販されると、ファンだったというわけではないのに欲しくなりますし(現に、ふと思い出した『たこやきマントマン』のDVDセットを買おうとしたし、押入れから出てきた『みんなのうた』のカセットテープを聞きたいがためにプレーヤーを買おうとした)、コンビニの有線で流れていた母親世代の曲をひとりカラオケで歌って、しみじみしたりもします。
そういえば、小学校を模した作りの居酒屋さんに行ったとき、学校の机とイスのある教室(風の個室)で、乾杯の合間に先生(の役をする店員さん)から配られた算数のテストをうけて、なつかしい! を連呼しながら何十枚も写真を撮ったことを思い出しました。
入り口では、ランドセルを背負って写真を撮ることができ、なつかしい! 背負いたい! とはしゃぎましたが、写真待ちの列の長さにあきらめました。ランドセルを背負った大人たちは、なつかしさを手にして、誰もがうれしそうでした。
店内は大きな音で昭和歌謡が流れていて、なんだか懐かしいなぁと思ったのですが、よく考えたら知らない曲だったし、思い出の中で昭和歌謡が流れていたことはありません。大人になってから、趣味として調べて聴くようになっただけです。
なにもなつかしくないのに、なつかしいと思ってしまうまぼろしのような感覚、記憶がゆらゆらとしてきて感情が飲み込まれてしまいそうでした。
ふと冷静になると、算数のテストは大嫌いだったし、ランドセルをかわいいと思ったことは一度もありません。学校だって嫌いだったので、いかに行かないでいるかばかり考えていたはずです。
なつかしさは、少しだけ理性をおかしくします。
嫌な思い出に癒される
物心ついたころから暮らしはいつも不安定でした。
どなり声や殴り合いが日常の家庭で生まれ育ったので、無意識に自分の標準が、「不安定のなかにいること」になってしまっています。逃げるように飛び出してきた地元や、許しあうことができなかった血縁や、憎しみを人にむけないようにカッターでズタズタにした部屋の柱のことを思い出すと、「あのままずっとあの場所にいられたらよかったのに」と思い、説明ができない涙と、怒りのような笑いがこみあげてきてしまいます。
そう。戻りたくないはずの思い出に、つい呼び寄せられてしまうのです。たとえ、それが幸せなものではなかったとしても。
「懐かしさ」には望郷のような、戻れない大切な思い出をイメージすることが多いようですが、パンドラの箱のような過去を持っている者にとっても、同じくノスタルジーを呼び起こすようです。
クレヨンしんちゃんの映画『モーレツ!オトナ帝国の逆襲』で野原ひろしが、未来に向かいたい気持ちが過去のノスタルジーに負けそうになって、「ちくしょー、どうしてこんなに懐かしいんだ!」と怒るように泣いていたシーンが頭をよぎりました。
わたしはなぜか、なかったことにしたいトラウマのような思い出に対して、「なつかしい」と強く思ってしまうようです。先のコラムに書いたような、早く逃げ出したいつらいだけの場所にいざ立ってみると、「このままここにいてしまいたい」という気持ちが巻き起こってしまうのです。それも、とても強く。
知らない幸せの体験よりも、知っている不安定のほうが何倍も安心します。
なぜなら、知っているものはこわくないから。
不安定な毎日はいやというほど知っていて、予想外のことが起こらないからです。「やっぱりね」で諦めがつくようになってしまっていたのです。その逆で、うれしいことや幸せなことは、先の予想がつかないので不安要素になります。未体験のできごとはこわく、避けたいと思ってしまいそうになる。
わたしたちは、過去の自分にもどる疑似体験をしたいのかもしれません。
数年後、数十年後、なつかしいと感じる場面には…
ところで、なつかしいについて会話をしている中、わたしは何度もスマホにメモをしていました。話しながら、自分の気持ちを忘れないように、ことこまかにメモに残すクセがあります。これは、声コンプレックスで、人と会話ができなかったころの名残りなのですが、いま考えていること、感じたことが自分の中だけでしか存在せず、なにもなかったことになってしまうのでは…という焦りからあるからです。
人と会話にできるようになったいまも。
たかが自分の気持ち、なのに。
ここまで怨念のように、自分の気持ちを忘れることへの恥ずかしい執着をもっているひとに、わたしはまだ会ったことがありません。いま、「人と会話ができるようになった」ことを受け止めきれていないのかもしれません。どうしても不幸せな過去のクセから抜け出せない。幸せをうけとめることは、こんなにもむずかしいのか。
こうして、なつかしさについて話し続けているわたしたちの横を、お店の人の知り合いらしき子どもが、なにか歌いながら走っていきました。わたしたちにとっては現在進行形のこの風景を、あの子はいつか「なつかしい場所」として思い出すのかもしれません。
議論したインドカレーのにおいと、食べきれなかったナンと、お店のテレビにうつっていたミュージカルと、こうやって誰かに向けて話しかけながら書いている文章。いま現在のことは、どのくらい時間がたったら懐かしく思うのだろう。数年後、数十年後、わたしがなつかしいと感じること、そのときに思い浮かぶ場面は、今度は誰もいない世界ではないような気がします。
あなたが、「なつかしい」と聞いてパっと思い出すのはどんな風景なのでしょうか。そこに帰りたいと、思っていますか?
(成宮アイコ・連載『傷つかない人間なんていると思うなよ』第二十四回)
文◎成宮アイコ
https://twitter.com/aico_narumiya
赤い紙に書いた詩や短歌を読み捨てていく朗読詩人。
朗読ライブが『スーパーニュース』や『朝日新聞』に取り上げられ全国で興行。
生きづらさや社会問題に対する赤裸々な言動により
たびたびネット上のコンテンツを削除されるが絶対に黙らないでいようと決めている。
2017年9月「あなたとわたしのドキュメンタリー」(書肆侃侃房)刊行。