オバケの棲む家(後編) 「オバケと真っ向から闘った男の運命は」|川奈まり子の奇譚蒐集十九
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※前編はこちらから
オバケの棲む家(前編) 「誰かが二階から降りてくる!」|川奈まり子の奇譚蒐集十八
その晩も、岡村さんは死んだように静かにしていた。
買ってきた缶チューハイのプルトップを開けただけで、オバケの奴が天井をギィギィ鳴らしたので、その後はゲップすら我慢して、音を立てぬようにチューハイをすすり、裂きイカを齧りながら、イヤホンをつけてテレビを見ていたところ、突然、夜のしじまを切り裂いてベルが鳴り響いた。
ジリリリリリリリッ! ジリリリリリリリッ! ジリリリリリリリッ!
慌てふためいて立ちあがるのと同時に、2階のオバケがかつてないほど激しくギィギィと騒いだ。
激怒して足を踏み鳴らしているに違いない。2階の床が抜けるのではないかとハラハラするほど天井が軋み、パラパラと埃が落ちてきた。
しかし執拗にベルは鳴りつづける。携帯電話の着信音ではない。
ジリリリリリリリッ! ジリリリリリリリッ! ジリリリリリリリッ!
……固定電話が鳴っているのだと岡村さんが理解するまで、3秒くらいかかってしまった。
そんなものがあることすら忘れていたのだ。番号を知っているのは支所長ともう一人の所員だけで、引っ越してきてから一度も掛かってきたことがない。
そう言えば初日に支所長から電話について説明を受けたっけ、と、思い出し、固定電話が置いてある玄関の方へ猛ダッシュした。
――大変だ。早く受話器を取らないと、また2階からオバケが下りてくるぞ!
ギィギィキシキシッ! ……キィ~ッ。
――こ、これは2階の部屋の戸の音だ!
「ギャーッ、もしもしっ!」
悲鳴をあげながら受話器を取ると、電話線の向こうの誰かが「どんげしたん?」と驚いた。聞き覚えのある声だ。
「あれっ? 金子か?」
「そうちゃ! 宮崎支所ん金子だよぉ。そっちん支所にオカやんの番号を教えてもろうたんやけど……大丈夫か? なんか、悲鳴をあげちょったけど」
「う、うん」
岡村さんは2階へ続く段梯子の方を見やり、耳を澄ました。
さっき確かにキィッと戸が開く音がしたが、今はシーンとしている。ということは、オバケはこちらのようすに聞き耳を立てているのだろう。
金子というのは宮崎支所の同僚で、去年入院するまではしょっちゅうつるんでいた。いい飲み友だちだったが、岡村さんが手術のために休職したうえ、さらに休職中に強制的に愛媛に異動させられたので、交流が中断していたのだ。
「ちょっとね。でも今は平気みたいだ。それより、急にどうした? なんで携帯じゃなくこの電話に……。今、ここの支所の人に番号を聞いたって言ったかい?」
「そうちゃ! オカやん、急に消えたから、宮崎じゃいろいろ噂が立っちょったが! ヘマして飛ばされたやら、アル中で入院したやら」
「ひどいな。デマだよ!」
「悪い。本当は病気じゃねえで、アル中で入院したちゅう噂は、俺も信じてしもうた。オカやん、呑み助やったから。やかぃ連絡せんかったけんど、たまたまさっき愛媛んそこん支所に急用で連絡したら、残業しちょった支所ん人がオカやんの名前を出したかぃ、たまがった! そんで、いろいろ聞いた! ついでに番号を教えてもろうたかぃ、こっちに電話かけたけんど、携帯ん方が良かったか?」
「うん! 次からは携帯にかけて! 絶対こっちにはかけないで!」
「……なんやそん言い方は? 迷惑やった?」
「ああ、ごめん! 迷惑じゃないよ! だけど、いろいろ事情があってね」
オバケのことを話しても理解してもらえるとは思えなかった。
金子は体育会ノリで豪快な、気のいい男だ。「なんや、事情って?」と訊き返されて、岡村さんは言いよどんだ。
すると、「おなごか!」と、なんだか嬉しそうに決めつけられてしまった。
「そこに女がおるとじゃろう? さては、友だちと口をきいてん嫉妬するような情の深えおなごと、ズブズブなんやろう?」
「ち、違うって!」
「ごまかさんでんいいちゃ。さっき誰かがおまえん後ろで咳払いしたちゃ! そやかい、誰かそばにいるなぁとは思うちょった! そうか、おなごかぁ!」
「誰もいないって! 本当に、僕ひとりだよ」
「ほら、こんどは唸った! なんか犬んごたるな、おまえん彼女」
「唸った?」
岡村さんはゾッとして後ろを振り返った。……誰もいなかった。
金子は「うん」と答えたが、岡村さんが嘘をついていないと察したらしく、少し黙った。そこで岡村さんは咳払いや唸り声について訊ねようと思ったのだが、「あのさ……」と言いかけた途端に、金子に遮られた。
「ま、また電話するちゃ! じゃあな!」
それきり、ブツンと通話が切れた。
自分を孤独へと導くオバケ
受話器を戻すと、岡村さんは2階のようすを気にしながら六畳間に戻った。点けっぱなしになっていたテレビを消して、テーブルの上を片づけて、もう寝てしまおうと考えたが……。
――そうだ、オバケが2階の戸を閉めた音を聞いていないぞ。
あいつが戸を開けたまま、いつでも段梯子を下りて来られる構えを見せているかもしれないと思うと、落ち着いてベッドに横になっていられなかった。
――金子は、どうして慌てて電話を切ったんだろう? 僕の近くで咳払いや犬みたいな唸り声がしただと? 僕には何も聞こえなかったが。
そのうち尿意を催して、おっかなびっくりボットン便所で用を済ませた。
夜に大小をするたび、ひと月前の悪夢を蘇らせずにはいられない。また段梯子からオバケが下りてきて、便所の戸を叩いたらどうしようと不安になるのだ。ましてや今は2階の戸を開けたのだから。
が、何も起らなかった。それからも手洗いや歯磨きをしたが、天井も鳴らない。いつもは、うがいをしただけでギィギィ怒るのに……。
部屋の灯りを豆球だけにしてベッドに横になったが、静かになればなったで気になり、まんじりともしない。
と、そのとき、枕もとで携帯電話が振動した。
着信を知らせるバイブレーションだ。何かと思ったら、宮崎で行きつけだった飲み屋のおねえさんからの電話だった。
「今、金子クンから岡村クンの話を教えてもらったのよ。愛媛で元気にしてるんだってね? 変な噂が立って、私も、つい信じちゃってた。ごめんね!」
岡村さんは「アル中じゃないよ」と苦笑した。
「心配したのよ。年賀状の返事も寄越さないから」
「ごめん、去年背骨を手術して、正月は入院してリハビリの最中だった。しかも入院中に転勤させられちゃって、いろいろ余裕がなくて……。そうだ、金子が店に来たの? 今そこにいる?」
いるなら少し電話を代わってもらって、さっき唐突に電話を切った理由を確かめようと思ったのだが。
「ううん。メールで岡村クンの近況を報告してくれただけ。お店が閑古鳥が鳴いててヒマだったから電話したの。声が聞けてよかったわ。……あれ?」
「何?」
「何って……あら? お邪魔したかしら! ごめんなさい。またね!」
なんだか慌てたように通話が切られた。さっきの金子と同じ感じだ。
何か、奇妙だ。すっかり目が冴えてしまった。
岡村さんはベッドの上に起きて、手にした携帯電話を見つめた。今しがた会話したおねえさんか金子に電話して、急に電話を切った理由を問い詰めようか……。しかし、イヤな予感がした。何か怖いことを知るはめになりそうな……。それにまた、単純にめんどくさくもある。今、訊く必要があるか? こんなふうにさまざまに考えた挙句、次第に思考が脱線していった。
金子に「おなご」が何だかんだと言われたことと、馴染みだった飲み屋のおねえさんの色っぽい声を聞いたことが同時に作用したのかもしれない。ひと月前に知り合った女性に連絡したくなったのだ。
オバケに2階で脅された日、家を飛び出してから町でハシゴ酒をし、数軒目に立ち寄ったスナックで独りで来ていた女の子と出逢って意気投合した。別れ際に連絡先を交換したのに、なんとなく、それっきりになっていた。
――転んでもタダでは起きないとは僕のこと。
まずは丁寧なメールを送り、文章の末尾で「今、電話していい?」と訊ねてみた。すると、即座に「いいよ」と返信があった。
「ごめんね。こんな夜遅くに。急に声が聞きたくなって」
「ううん! 私のこと憶えていてくれて嬉しかった! また岡村さんと飲みたいな……ん? 混線かしら? 今、変な声がしなかった?」
「いや、何も?」
「ホントに? じゃあ、これは何なの? ……怖っ! せっかく電話もらったけど、ごめんなさい!」
ブツリ。
――これで3人連続だ!
結局、3人では済まなかった。明くる日の晩に、金子から事情を聞いたという宮崎の知人と大分の友人からも携帯電話に電話がかかってきて、彼らもまた、突然慌てたように通話を終了したのである。
大分の友人とは十代の頃から付き合いがあり、金子と違って仕事上の絡みもなく、今回電話をかけてきた中では最もお互いに気の置けない仲だ。
だからだろう、彼だけが、唯一はっきりとこんなことを言った。
「おまえん家、本当に他にはだあれもおらんのか? おまえん声にかぶさって、誰かがゴホゴホ咳払いしたり、ウーウー唸ったりしとんのやが。会話ん邪魔されちょんごた気分が悪いし、おまえん声も聴き取りづれえ。それに、マジでだあれんおらんならゾゾッと鳥肌が立っちまう! ……なあ、来月、大分に帰っちきたらたっぷり話するけん、今夜はもう電話は止めようえ?」
これが皆が電話を切った理由なのだと岡村さんは直感した。つまり、オバケが電話を妨害しているに違いない。
――僕にひとりぼっちになれって言うのか?
岡村さんはにわかに孤独を覚えた。友人たちの声を聞いたせいだろうか。急に寂しくなってしまったのである。
もう我慢なんかしないぞ!
ちょうど翌日は支所の定休日だった。
ママのいるスナックに飲みに行き、千鳥足で帰ってくると、玄関の引き戸を閉めた途端、携帯電話に電話の着信があった。
誰だろうと思いながら液晶画面を見たら、普通は発信者の番号が表示されるところ、でたらめな数字や記号が画面を埋め尽くしていた。
いっぺんに酔いが冷めた。
オバケの仕業に違いない。振動しつづけている携帯電話の電源を切った。
この携帯電話がオバケに通じていると思うと恐ろしく、その晩は電源をオフにしたまま、急いで布団を頭から引っかぶって寝てしまった。
翌朝、恐る恐る着信履歴を確認してみたら、最後に着信があったのは大分の友人で、それ以降は履歴がなかった。
しかし、数字と記号でいっぱいになった画面はインパクトがあり、しっかりと目に焼きついている。再びオバケが電話をかけてくるかもしれない。そして、友だちと通話することは今後も邪魔されるのだろう。
「……もう嫌だ」
思わず、つぶやいていた。
「そんなわがままが通ると思うのか? だったら僕だって我慢しないぞ!」
これまで、オバケと共存するために、静かに生活するよう、心掛けてきた。テレビやラジオを視聴する際にはイヤホン。ステレオで音楽を聴くにはヘッドホン。入浴中の鼻歌は我慢。さらに、日常の動作にも重々気をつけてきた。歩き方や戸の開け閉めなどは無論のこと、オナラやくしゃみなども含めて、だ。
岡村さんは何度か、自分が図体の大きな22歳の男ではなく、華奢でおしとやかなお嬢さまか、上品で小柄なおばあさんであれば、辛くないのかもしれないと考えずにはいられなかった。
オナラはさておき、そもそも足音などは、体の大きさや体重に比例するものだと思う。それに、若くて元気が余っているせいか、どんな動作も、ついつい乱暴になりやすい。
つまり、自然にふるまったら、どうしても物音が立ってしまう。そこを強いて音を立てまいと努めているのだから、当然、ストレスを感じていた。
「今日から何も我慢しないぞ! 5月になったら出ていってやるから、それまでの間、覚悟しておけ!」
こう捨て台詞を吐いて、その朝、彼は出勤したのだった。
ところが――。
「ええっ!? そんなぁ! 所長、約束が違います!」
珍しく所長が昼食を奢ってくれるというからついていったら、「きみは6月までうちの支所に勤務することになった」と告げられたのである。
「うん。しかし、怪我の経過が思わしくないから、休職期間を1ヶ月延長したいということで、すでに了承してしまった。岡村くんもここにだいぶ慣れてきたようだし、実際よくやってくれていて、私としては6月までと言わず、もっと長くうちで働いてもらいたいと思っていたところだったから」
「……じゃあ、社宅を移らせてください!」
「自分でアパートか何かを借りて家賃を払うなら構わないが、2ヶ月足らず住むためにそんなことをするのは割に合わないのじゃないか?」
「それは……そうですけど……」
「ここいら辺は松山市や何かと違って、愛媛の中でもド田舎だからなぁ。手頃なアパートが無い。車で1時間ぐらいの距離まで行けば、ファミリー向けのマンションがあるにはあるが、それなり高いし、敷金礼金をガッツリ取られるぞ。この界隈で、今と同じくらいの値段で借りられる物件は、あれと似たり寄ったりの古いボロ家ばっかりだよ?」
今の家と同じような古い家しか借りられないということは、あのオバケから逃れても、別のオバケの棲み処に当たってしまうかもしれないということか。
岡村さんは絶望した。
そして、今後は2階のオバケに忖度しない決意をさらに固めた。
仕事を終えると、帰りがけに缶ビール1ダースとポテトチップを買い、荒々しく玄関の引き戸を開けて、土間に立ち「ただいま!」と大声を張りあげた。
天井がギィと鳴った。
いつもなら首をすくめて反省するところだが、今夜の岡村さんは違った。あえてピシャンと叩きつけるように戸を閉めて、オバケに応えた。
ギィギィッ!
「黙れ! 今は僕が借りてる僕の家だ! 好きなようにやらせてもらう!」
ギィギィキシキシッ!
「知るかボケ!」
挿しっぱなしになっていたイヤホンのプラグを引き抜いて、テレビのスイッチを入れると、静かだった家に音が溢れた。お笑いバラエティにチャンネルを合わせておいて、大声で鼻歌をがなりながら(歌はもちろん「オバケなんてないさ」だ)服を脱いでシャワーを浴びた。
オバケは荒れ狂い、シャワーの水音やテレビの音声でも打ち消せないほど、2階の床を踏み鳴らして音を立てている。
それに構わず、岡村さんはパジャマに着替え、缶ビールとポテトチップの袋を持ってベッドに陣取った。ポテトチップの袋をバリッと開けると、ドシンと重い物が倒れるような音が天井でして、上から埃が降ってきた。
そこで、なにくそと思い、「いい度胸だ!」と天井に向かって怒鳴りながら、リモコンでテレビの音量を上げてやった。
キィ~ッ! ミシッ、ミシッ……。
――うわぁ。また2階から下りてきやがった!
段梯子を踏んで下りてくる足音と気配がし、次いで、思いがけないほど間近でギッと床が鳴った。
「お、下りてきたって、怖かねぇぞ」
すぐ斜め後ろ辺りの壁がドンと鳴った。拳で殴りつけたかのような音である。姿は見えないが、オバケは自分のすぐ隣にいるらしい。
「こら! ひとのベッドに乗るなよ!」
ドシン!
再び、さっきより激しく壁が鳴り、座っているベッドが少し揺れた。
「やかましいんじゃ!」
ドシンドシン!
「もう、アッタマきた! 僕だってこんな家、早く出たいよ! 会社に言われて仕方なく住んでるだけだ! 病気で手術して長く休んだから、上の言うこときかないとクビにされそうだから! 金もあんまり無いし! 愛媛には頼れる友だちもいない! カノジョだっていない! ちょっとイイなと思った子はいたけど、おまえのせいで不気味がられて、ハイ終了! 本当は今すぐ実家に帰りたい! あと少しの辛抱だと思ってたら、今日いきなり6月までいろって命令されてガッカリ! こんなの、笑うしかないだろ! アッハッハーだ!」
ドン!
「しょうがないじゃないか! 僕だって断りたかったよ! 僕は休んでる所員の代わり。その人は足を骨折したんだよ。おまえはオバケだから健康保険の傷病手当金なんて知らないと思うけど、人間界には怪我や病気で休むとお金が貰える仕組みがあって、何ヶ月もそれまでの給料の三分の二の額のお金を受け取りながら自宅療養できるかもしれなくて……もちろん嘘をつくのはダメなことだけど、でもさ……あーあ、僕ももっと休めばよかったなぁ! 正直者がバカをみる世の中でいいと思ってんのか、チクショウめ!」
ドン。
「お? わかってくれたのか?」
ドンドン。
「だったら、おまえがこの状況をなんとかしろよ!」
ドシン! ドシン!
「命令するなってか? うるせぇ、バーカ!」
バカは禁句だったようで、オバケは壁を猛烈に連打しはじめた。部屋じゅうが揺れるほどの勢いだったから、岡村さんは咄嗟に枕で頭部を守った。そして、震えながら「どうせなら、こんな家、壊しちまえ!」と叫んだ。
……壁が鳴りやんだ。
しばらくして2階の戸が軋みながら閉まる音がした。
そのとき、岡村さんは自分の頬が涙で濡れていることに気がついた。いつの間にか泣いていたのだ。怖くて泣いたのではなく、愚痴を言っているうちに悔し泣きしていたようだった。
もしかして「アイツ」が……?
その翌日から、オバケの気配が家から消えた。
テレビを点けても、ステレオを鳴らして音楽を聴いても、うんともすんとも言わない。携帯電話も普通に使えるようになった。
2週間が過ぎた頃、岡村さんはまた昼休みに所長に呼び出された。
「この前はああ言ったが、やはり、5月1日から大分に行ってもらうことになった。どういうことなのかよくわからないが、例の休んでる所員が、やっぱり早く復帰させてほしいと言ってきたんだよ。明日にでも戻りたい、と」
「経過が悪いんじゃなかったんですか?」
「急にメキメキと良くなったんだと。そろそろ奥さんに邪険にされだしたのかもしれないなぁ。退院してからずっと家でゴロゴロしていたわけだから。まあ、なんでもいいさ。大分本社は人手不足で、早く岡村くんを寄越せと言っている。もしかすると、5月を待たずに異動できるかもしれない」
「本当ですか?」
「うん。さっそく明日から仕事の引き継ぎをお願いするよ」
果たして、翌朝になると、休職していた所員が出勤してきた。
40代半ばの男性所員で、所長の話から妻帯者であることはわかっていたが、仕事の合間に話しているうちに、夫婦共働きで、小学生の子どもがいることがわかった。
「息子の教育上よろしくないから、昼間から家でダラダラしていてほしくないと妻が言うんだよね。入院中に昼寝をする癖がついて、午後はずっと寝ているようになったんだけど、それが気に喰わないって」
所長が想像していた通りだなと思いながら、「僕もここに来る前、入院していたから、わかります」と言うと、嬉しそうに、「怠け癖がついちゃうよね、どうしても!」と飛びついた。
「ああ、でもきみはまだ若いからなぁ。回復も早いよね。僕は中年だから。それに、うちは妻が正社員だから、保険が下りているうちは食うには困らない。昼寝ライフが楽しくてさぁ、なるべく長く休ませてもらおうと思ったんだ、ここだけの話。ところが、急に変なことが起きはじめて……」
「何かあったんですか?」
「信じてもらえるかどうかわからないけど……岡村くんはラップ音って聞いたことある?」
岡村さんは家のオバケの音を思い浮かべた。
「床や天井をギィギィキシキシいわせたり、壁をドンと殴ったりする音なら」
昼寝所員は目を丸くして岡村さんの顔を見つめた。
「なぜわかるの? そう! まさに、そういう音だったよ! ギィギィギィギィ、天井が鳴ってうるさいのなんの。昼寝なんて、できやしない。ストンピングもされたなぁ。知ってる? ストンピングって、足を踏み鳴らすやつ。あれが上の階から聞こえてくるんだ」
――ああ、オバケの奴、腹を立てるとよくやってたっけ。
「初めは、うちのマンションの上の階の住人が騒いでいると思って、苦情を言いにいった。そしたら、上には誰も住んでいなかったんだ! しかも、うちに戻ってきたら、テレビが勝手に点いてた。妙に小さい音でね」
――僕のところのオバケと同じことをするんだな。いや、もしかして……。
「それで、本気で怖くなって、考えた」
「何を、ですか?」
「原因を、だよ! すると、思い当たることはひとつしかなかった。休職期間を延長してもらった日の翌日から、ギィギィキシキシ、始まった。他には何も変わったことはしていない。だから復帰することにしたわけ。それでね、偶然かもしれないが、出勤を決めたら、音がしなくなったんだよねぇ! やっぱり、悪いことはできないものだね。あれはきっと神さまだと思う。たぶんバチが当たったんだ。足はもう、とっくに治っていたから……おっと、これは内緒だよ!」
岡村さんは笑顔で「ええ、わかってます」と応えながら、2階のオバケに感謝した。いや、オバケではなく神さまの一種なのかもしれないが、最後は役に立ってくれた。
家を引き払うとき、岡村さんは思い切って2階に上がってみた。
ささくれた古畳が敷いてあるだけの何も無い部屋だ。畳の一隅にある黒ずんだ染みも、前に見たときと変わらない。
なんの気配もないと思ったが、部屋から出ようとして戸口に立ったとき、背後で小さな音がした。
ギィ。
だから岡村さんも心の中で別れを告げたのだった。
さようなら、と。
(川奈まり子の奇譚蒐集・連載【十九】)