1973年生まれの私にとってクリスマスとはバブリーな恋人達のものではなかったのだ|中川淳一郎

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クリスマス、いいね。いやぁ~2018年クリスマスを彩る12月22日~24日、東京の渋谷・表参道・代官山・恵比寿・六本木というラブラブエリアを訪れたが、アツアツのアベックや幸せそうな姿だらけで、若者が恋愛を楽しんでいる様や家庭円満の様子を見てオッサンは嬉しくなってしまったゾ!

というわけで、今回は「昭和のクリスマス」を振り返ってみる。大抵の場合、「高度成長期からその直後、三角帽をかぶったサラリーマンが酔っ払って繁華街の飲食店でフィーバーしている」か「男が恋人女性と一夜を過ごすため、高級フレンチと赤坂プリンスを予約し、ティファニーのネックレスをプレゼントし、翌朝はチェックアウトに行列ができて翌年の予約もする」といったところだろう。

ケッ、そんなもんはオレみたいな1973年生まれには無縁だ。いい加減に「昭和のクリスマス」を画一化するんじゃねぇ、エッ! と言いたい。オレがもっとも覚えているのは1981年、小学校2年生の時のクリスマスだ。

我が家は単身赴任家庭で父親はインドネシアにいた。当時、クリスマスは家族で過ごす日であり、バブル期に開始する「恋人達の1日」という捉えられ方はされていなかった。クリスマスというのは、誕生日とあわせ、親からプレゼントをもらえる貴重な日という位置づけだった。

だからこそ、12月25日の朝、起きたら枕元にプレゼントが置いてあり、大喜びするというのが定番だった。私は姉と同じ部屋に布団を敷いて寝ていたのだが、朝起きたら希望通り私向けには「ロボダッチのプラモデル」と姉には「キキララの木の家」が置いてあって大喜びをした。

「家族の日」ということだから、父親が海外にいる私の家は近所からは憐れみの目で見られている部分があった。そんな中、自分が住んでいた社宅の下の階に住むIさん一家は我が家に対して本当に優しかった。

同家のお母さんは、私と2歳年上の姉を連れて、12月24日の夕方、駅前の東急ストアのおもちゃコーナーに連れて行ってくれ、「由香ちゃん(姉のこと)と淳ちゃん(私のこと)の好きなもの買ってあげるよ」と言ってくれた。

姉は任天堂から発売されていた「ゲーム&ウオッチ」の「オクトパス」をねだった。「オクトパス」は「ワイドスクリーン」で4500円だったが、さすがにこんな高級品はマズいだろうと思い、私は(記憶は定かではないが)4300円だった「ボール」を買ってもらった。

そしてその日の夜、このゲームをやりながら母と姉とともにスーパーで買った銀紙がついた鶏のモモ肉を食べていたところ、家に呼び鈴が鳴った。そこにいたのは、Iさん宅の次男で大学2年生だったY君だった。

彼は当時横浜国立大学の学生で、バイト先はアイスクリーム屋だった。1981年10月に発売されたロッテの「雪見だいふく」がいかに美味しいかを力説し、我が家に持ってきてくれたりもした彼が、「アイスケーキ」を持ってきてくれたのだ。それはホールのデコレーションケーキとほぼ同じサイズではあったが、大量のドライアイスとともに密閉された袋に入っていた。

「僕のバイト先で、普通のケーキに対抗して『アイスケーキ』を作ったんで、由香ちゃんと淳ちゃんに持ってきたよ」

そう彼は言い、アイスクリームでできたホールのケーキを出してくれた。見た目はデコレーションケーキそっくりで、砂糖でできたサンタクロースやトナカイもきちんと配置されていた。私と姉が歓声をあげながらこれを食べたのは言うまでもない。

人生最高の昭和のクリスマスを挙げよ、と言われたらこの日以外はない。

平成に入り、私も大人になると様々なクリスマス(イブ)を経たが、そこには若干の下心があったようにも思える。もちろん今は下心などは一切ないが、1981年(昭和56年)のクリスマスは本当に素晴らしいものだった。皆さんの昭和のクリスマスの思い出はなんですか?(文◎中川淳一郎 連載『俺の昭和史』)

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