なぜメディアスクラムは起きたのか 小山田圭吾さん問題「Quick Japan」を編集者目線で総括してみた

村上さんのコメントにある

【「いじめはいけない」「いじめはやめよう」といった、正しいけれど素朴な言葉をどれだけ重ねても現実のいじめはなくならないのでは、という苛立ちが募った末、あえて極端な角度からいじめという重大な問題の本質を伝えることで事態をゆさぶり、何らかの突破口にできないかと思うに至りました。】

が後付けではないかとすら思えてしまいます。

コメントと当時の「QJ」の記事の整合性が取れていないように映った訳です。この記事の主体は村上さんです。村上さん執筆記事であり、この人の主張が全面に出ています。小山田圭吾さんの談話は村上さん執筆記事の中に放り込まれているという構成です(長いけれど)。何度読み返しても「QJ」記事がイジメを無くそうとして掲載された、とは感じられません。その点については【執筆者の未熟の極みと言う他ありません】とコメントの前の方に書かれている通りです。

未熟の部分は【でも『いじめスプラッターには、イージーなヒューマニズムをぶっ飛ばすポジティブさを感じる。小学校ま時にコンパスの尖った方で背中を刺されたのも、今となってはいいエンターテイメントだ。『ディティール賞』って感じだ。どうせいじめはなくならないんだし。】

【記事原文では冒頭から私の露悪的な文章が続きますが、それは本来の対談相手でもない筆者が「いじめはよくない、やめよう」と書いたり態度に示すことは、彼らにとっては一気に、安心できる教科書的記事になってしまい、それでは何も伝わらない、毒には毒をもって対するしかない、と当時考えたためです】(コメントより)

といった記述あたりでしょうか。何度も言いますが「コメント」はなるほどと思います。が、記事原文(4、5回は読みました)を読むと不愉快とおぞましさ、しか残りません。

確かにいじめはなくならないでしょう。僕のいた明大中野中学・高校も小山田さんがいた和光中学・高校と同様の都内の私立一貫校です。形態は似ています。が、これほどのいじめが合ったという話は聞きません。違う点はどちらが優れているとかではなく、恐らく暴走族の同級生や体育会系の学生たちが校内ヒエラルキーのトップにいて、彼らが一般生徒を相手にしなかったという校風もあると推測しています。

いじめはなくならない。けれど、村上さんは記事原文で批判していましたが、それが偽善であろうが何であろうが、正論はずっと、恥ずかしげもなく吐き続けるべきだと思うのです。「いじめはやってはならない」と。さらに加えるなら「差別は許されない」。これは我々の先達が命を賭して得た、貴重な思考です。偽善であろうがなかろうが、関係ありません。

そして、頭の良い人が陥りがちなチートはとことんダメだなと、改めて「QJ」問題を考える上で思いました。2011年東日本大震災でも「チートだけど結果が良ければOK」という考えの元、怪し気なジャーナリストの煽りに乗っかってしまった知識人たちもいました。コロナ禍の現在でもそうです。陰謀論が、なぜかSNSを中心として浮遊しています。東日本大震災時で、僕らは「そういう意見は要らない」と学んだはずではなかったのか。頭の良い人(皮肉です)が言う、一見深味がありそうなひねった意見には黄色信号をつけるべきではないでしょうか。

「論破カッケー」の弊害 論争ではなく「言い負かせただけ」の印象操作 | TABLO 

今も、そして「QJ」記事掲載当時も、必要なのは「真っ当な意見」です。偽善と呼ぶ人がいれば偽善と呼べば良い。必要なのは愚直で真っ当な言葉です。それはいつの時代でも変わらないと思います。90年代悪趣味ブームにおいても、現在でも。(文@久田将義)