私が見た漢民族のウイグル族差別 「逃げる者は射殺」の衝撃【後編】

トルファンの街中には在日ウイグル族が指摘した、収容所(再教育施設)と特徴が一致する建物は確かにあった。その建物は、小学校のような高い壁があり、上には鉄条網が備わっていたのだ。

ウイグル族自らが監視。

現地に来る前に話しを聞いたウイグル族の話によると、ウイグル族はパスポートを持てないということだったが、それどころか、街と街の移動すら困難な様子がうかがえた。
こうした厳戒態勢だからか、日本人の僕に対しての挙動は普通ではなかった。

ガソリンスタンドにはテロよけのガードが。

街中にウイグル族らしき女子中学生が5人ほどいた。僕を見つけると、こちらを凝視して警戒した様子で何かを囁いている。彼女たちのすぐ手前には、ウイグル族の子供が行方不明になったことを伝えるポスターが貼ってあった。そのポスターのことを聞こうとしただけで、蜘蛛の子を散らすように逃げられてしまった。
それは市街地でコマ遊びをしている6歳ぐらいの子どもたちもそうだった。近付いていくとその分、無言ですっーと離れたりするのだ。

90年代の初頭、僕が現地を訪れたときは、子どもたちの方から寄って来て、ウイグル語で矢継ぎ早に話しかけられたり、ブドウをくれたりと、人なつっこさばかりが印象に残った。大人にしても、警戒感はまったくない感じで、屈託なく話しかけてきたものだ。

一方で話しかけてくるウイグルの人はというと、それぞれの人たちの切実な事情が垣間見えた。
夜10時ごろ、ウイグル族の食堂で食べていたとき、ポケットティッシュを3つ、売りつけてきた10歳ぐらいの少女がいた。

「三つで一〇元で買って」

そう繰り返して離れようとしない。話しを聞くと、母親は掃除の仕事をしているという。しかし、父親について聞くと、口をつぐんだのだ。もしかすると、父親は当局に収容されたのかもしれなかった。そのことを店の人は知っていて、不憫だからこそ、女の子のことを助けたくて、客に売るのを黙認しているのかもしれない。

観光地トルファンで話しかけてきた60ぐらいの厳つい中年男性は別の意味で切実さを感じさせた。日本のヤクザ映画に出てきそうな彼は「私、トルファンの安岡力也って呼ばれてるのよ」と自己紹介した。聞けば80年代後半から日本人相手に観光業をしているという。

その人の観光ツアーに参加したついでに、彼に話しを聞いてみたところ、いろいろはぐらかされてしまった。

――街はずいぶん変わりましたね。

「昔の方が良かったよ」

――1991年にトルファンに来たときは9割がウイグル族で漢民族はほとんどいなかったのにいまは半分以上が漢民族ですね。

「……」

――50メートルおきに交番がありますけど、なんで警察こんなに増えたんですか?

「酔っ払いが多いからだよ」

昔はよかったという言葉の真意を聞いてみたかったか、彼は警戒したのか、酔っ払いが多いという嘘をついて話しを遮った。見え透いた嘘に腹立たしい思いがこみ上げてきた。でも、こうでも言わなければ警察にしょっぴかれ、取り調べを受けるのかもしれない……僕はそう思い直した。

街に大挙して、漢民族を移住させ人口で圧倒、その一方でウイグル族の文化や言語、生活を圧迫し、漢民族化することで、この世から消し去ろうとしている。そうすることで、イスラムのテロを根本から亡くそうとしている。今回流出した「新疆公安ファイル」は、その遠大な計画の氷山の一角でしかない。(文・写真@西牟田靖)