伊藤詩織さん監督作品「Black Box Diaries」 ジャーナリストとは、ドキュメンタリー作品とは何かを考察してみた

著書「Black Box」が映画化。賛否両論の作品となってしまった。

そろそろ、議論も出尽くした感があります。伊藤詩織監督作品「Black Box Diaries」の「論争」です。米アカデミー賞ドキュメンタリー部門で、日本人監督がノミネートされた事自体が稀有で、その作品のインパクトは海外の専門家からも高く評価されている事が分かります。

その前に指摘しておかなければならない点があります。本来、作品の批評・批判なりの評価は作品全部を見てからが原則です。が、この作品は日本国内では上映されていないため、視聴している人が海外在住の人かメディア関係者に限られてしまっている点です。

※一部の映像を見て突っ込んだ批判・批評している人は勇み足であり、論じるのであれば例えば「一部しか見ていないが」というエクスキューズを付けるべきだと思っています。

 

伊藤さんは日刊スポーツ(3月5日)のインタビューで「もっと映画を撮りたい」と次回作の意欲をのぞかせていました。期待したいと思いますし、素直に見たいです。ただ、日刊スポーツのインタビューでは、恐らくNG項目になっていたのでは、と推測されますが、2月20日、西広弁護士らが抗議会見した内容については全く触れられていませんでした。

抗議の内容は既に知られていますが、ざっくりと整理しておきますと、

・ホテルの防犯カメラ映像は裁判でしか使用されないというホテルとの約束・契約がなされていなかった。

・西広弁護士との電話の会話が知らないうちに映像で使用されていた。

・タクシー運転手が証言する模様も許可を得ているかどうか。

・捜査状況を教えてくれた警察官の音声も流されている。

・そして西広弁護士の個人の想いとして、8年もずっと伊藤さんを支えてきたのに「心がズタズタ」になったという心情を披露。

主にこういった内容でした。

擁護派と否定派の二つに分かれてしまった「Black Box Diaries」。何が争点になっているのか。まず、ノイズを取り除く作業からしていきましょう。

第一に伊藤さんの服装に関するもの(会見でボタンをあけた服を着ている等)。これに関連づけるような記述はノイズです。また、(これを言いたい気持ちは分かりますが)記者会見を体調不良で欠席した後にアカデミー賞会場ではドレス姿で元気なようすだったという記述。これもノイズにしておきます。

ここでは作品論とジャーナリスト論と表現論に絞っていきたいと思います。それこそが、この騒動の核となっているからです。

この問題は大きく分けて2つです。

  • ジャーナリストとは何か(情報源の秘匿とは)
  • ドキュメンタリーとは何か

1は、ジャーナリストならば必ず守らなればならないものです。身近な例で言及しておきます。2011年、東日本大震災が起きました。その時、双葉郡で生まれて育ち、そのまま福島第一原発の仕事に従事。3月11日14時46分を迎えた若き作業員たちのインタビューを彼らの許可(ゲラチェックなど)を得て、僕は本にまとめました。その後、奧山俊宏上智大学教授(当時・朝日新聞編集委員)と取材を続けました。ある男性にインタビューした際、奥山教授はその話に非常に感銘を受け「この話は10年後にでも出すべきです」と僕に言いました。

そして10年絶った2021年3月11日朝日新聞夕刊で記事にしました。

「福島第一 体験した男性が証言」という小見出し。「男性は当時、大手設備会社の社員で、福島第一での勤務は通算20年ほど。(中略)12年2月記事にしない条件で雑誌編集者の久田将義氏と朝日新聞記者のインタビューを受けた。このほど事故10年を迎えるのを前に、社名や名前を伏せるなどの条件での記事化に応じた」(朝日新聞2021年3月11日夕刊)。

10年がかりでようやく記事にした訳です。奥山さんは教授になった今でもジャーナリストだと僕個人は思っていますが、このように10年という時間をある意味犠牲にしても「情報源の秘匿」を守った訳です。これがジャーナリストの仕事です。

公益性の高さから、例えばホテルの防犯カメラの映像は映画に使用するべきだという意見もありました。また、捜査員の電話会話も公益性の高さを優先して、映画に使用して当然という考えもありました。

先に結論じみた事を言ってしまいますが、福島第一原発の事故などは、公益性・公共性が最も高い事故でした。それでも個人の名前はもちろんその人につながるような情報は記事にしていません。それよりもその人が語った内容が重視されるからです。また、記事によってその人の職が失われた場合、その責任を取れるのか。

ジャーナリストとして、どちらの矜持を重んじるのか。「情報源の秘匿」が守られないのならば、ジャーナリストの仕事は成立しません。書き放題の無法状態の場で我々は仕事をしているのではないのです。これがまず「1」に対する考察です。

伊藤さんの作品についてはリスペクトします。また10年間に及ぶ「闘い」(誹謗中傷なども含めて)を経ての「Black Box Diaries」の公開と栄えあるアカデミー賞ノミネートは拍手を送ります。これは大前提で上記のことを考えました。

「ドキュメンタリー」とは何かといった問題提起にも個人的に考えされられました。

肯定派と見られる考察に、ドキュメンタリーは作品です、というものがありました。その通りで「作品」というからには作者がいます。作者はすなわち監督です。「作品」に「作る」という言葉が入っているように、監督によって作られた、編集されて世に出されたもの。それがドキュメンタリー作品です。なので、ドキュメンタリーといえど、画角・BGM・カット割りなどの編集が入り、結果として監督の意とする「作品」として観客に消化されます。つまり「ドキュメンタリー作品とはそういうもの論」です。

その過程で被取材者の肖像権やプライバシー権を超越しても「作品」にするというのがドキュメンタリーであるという論考も見ました。だからジャーナリストはドキュメンタリー作家とは異なるという意見。そうでしょうか。

ジャーナリストは真実を報じる仕事ですが、それでも例えばジャーナリストが得る、最も有名な賞である大宅壮一ノンフィクション賞受賞作には筆者の思い入れが挿入されている作品がいくつも見受けられますし、情報源の秘匿を守ったまま作品化されたものも当然あります。匿名にしないまでも、被取材者に許可を得るのはジャーナリストやドキュメンタリー作家である前に、人として当然の行為であると思います。

法律に抵触してでも伝えるべき真実がある。もしかしたらそうかも知れません。ただ、取材協力者を不幸にしてでも世に出す作品がある、と僕は言い切る事が出来ません。ジャーナリストとしての矜持とは何か、が今回浮彫りになった気がするのです。また、配給会社スターサンズも配給をした経緯をきちんと、説明すべきです。伊藤監督のみに批判が集中する事に違和感を抱いているのは僕だけではないはずです。

最後に、今回は限られた人にしか視聴できなかった本作品ですが修正したものをぜひ、日本で公開・配信して欲しいと思っています。基本、一人でも多くの人に考えて欲しい大きな問題提起をしている作品だからです。(文@久田将義・編集者)