『スリー・ビルボード』(マーティン・マクドナー監督)という映画を観ました。これがとても面白かった。
《アメリカの片田舎の大通りに並ぶ3枚の看板に、ある日突然、現れた真っ赤な広告。それは、地元で尊敬されている警察署長への抗議のメッセージだった──。》
舞台は、アメリカのミズーリ州。田舎町を貫く道路に並ぶ3枚の広告看板に、地元警察を批判するメッセージを出したのは、7カ月前に何者かに娘を殺されたミルドレッド・ヘイズ。何の進展もない捜査状況に腹を立てたミルドレッドがケンカを売ったのだ。町の人々から嫌がらせや抗議を受けても、一歩も引かないミルドレッド。その日を境に次々と不穏な事件が起こり始め、町に激震が走るなか、思いがけない展開が待ち受ける──。(HPより)
3枚の看板は「レイプされて死亡」「犯人逮捕はまだ?」「なぜ? ウィロビー署長」と書いてある。その道を通る人は嫌でも目にする。
観客は娘を殺された「ミルドレッド」(女性)の毅然とした姿勢に肩入れしながら物語を見てゆく。「敵」側である警察には平気で暴力をふるい粗野な態度のディクソンという警官もいる。彼らはうんざりするほどの田舎のずさんさ(閉じられた世界)を身にまとっている。
どう考えたってミルドレッドが正義なのだが、町の人々の多くは警察署長を気の毒に思い、ミルドレッドに対しては「やりすぎだ」と思っているフシもあるのだ。たしかに署長は人情味にあふれ人々に慕われているようだ。
ミルドレッドは看板を出して警察を追い詰め、捜査を進展させるはずだったが逆に孤立する。でも、そうであればあるほどミルドレッドはさらに態度を硬化させてゆく。
このあと、ある夜の出来事がきっかけで物語は加速する。悪人だと思っていた人間たちが別の面を見せ始める。観客は人間の多様な姿をみせつけられる。
それにしてもこれ、かたくななミルドレッドって誰かに似てませんか?
そう、貴乃花です。
この映画、貴乃花と相撲協会の今回の対立にびっくりするほど似ているのです。
弟子が暴行されて許せない貴乃花は、
「日馬富士に殴られた」
「協会の対応はまだ?」
「なぜ?八角理事長」
と今回3枚の看板を出したのだ。
この場合「看板」は関係の深いスポーツ紙の1面と考えてもいい。当然世の中は騒然となる。
でも相撲協会は一見すると悪の巣窟としか思えないのに、報道によっては貴乃花に対しても厳しい声も出ている。ん? どうなってんだ? と観客(視聴者・読者)は思う。
映画評論家の町山智浩氏は「スリー・ビルボード」の3つの看板はミルドレッド、警察署長、暴力警官ディクソンの3人を象徴しているのだろうと解説する。
《看板の裏は誰も見ないが、3人は見えざる裏の顔を持っている。世の中には第一印象通りの人などいない。》(『善人はなかなかいない「スリー・ビルボード」の恩寵』パンフレットより)
通りすがりの野次馬や観客は私も含め「表の顔」でわかりやすく判断してしまいたくなる。「これ、いい人? わるい人?」と時代劇を見てるじいちゃんに気軽に尋ねる子供の頃のままに。
必要なのはいろんな顔を想像することだ。情報が出てるなら自分で追うことだ。
私は人間は皆「見えざる裏の顔を持っている」から貴乃花も相撲協会も「どっちもどっち」だと言いたいのではない。
貴乃花が暴行事件を隠蔽させずに世の中に問う姿は正義だし、理事としての貴乃花を「惨敗生んだ非協力的態度と実績の少なさ」(日刊スポーツ2月3日)と理事選で問う親方衆も正義だ。
今回の理事選は改革が問われたのではなく、暴行事件前からの貴乃花理事の日頃の勤務態度が問われた可能性が高い。貴乃花の人間関係も含めて。調べればすぐに出てくる。
貴乃花には正義もあればツッコまれる弱点もある。それは相撲協会も同じだ。どちらかが善でどちらかが悪だと決めようとするとだいたい間違う。善も悪も同居しているからめんどくさくて面白い。
映画『スリー・ビルボード』の後半は「変わろうとする」人々の話になる。
貴乃花も相撲協会もまったく同じではないか。少しずつでもいいから変わっていこうと決めるしかないのだ。
お互いの正義を胸に秘め。
文◎プチ鹿島