女子マラソン指導者・故小出義雄氏が駆け抜けた「早い者勝ち」の時代|高部雨市

小出は言う。

 金メダリストの条件を「マラソンが大好きな選手」と仮定するなら、高橋こそピッタリの選手だった。放っておけば、いくらでもジョギングにいってしまう。駆けっこバカの私と同じ匂いのする選手だった。

駆けっこバカの小出は、同じ駆けっこバカの高橋によって、オリンピック二連覇の野望を抱いたのである。留まっていては、男子マラソン同様にアフリカ勢の野性の波にあっという間に押し流されてしまう。アフリカ勢の野性の波が来る前に、高橋尚子によるオリンピック二連覇こそが、燦然たる栄誉として女子マラソンの歴史に輝くのだ。

そして小出は、「非常識が新しい時代をつくる」とばかりに、高橋に過酷な練習を課した。

小出は豪語する、男子を含めて世界でこんなに練習量の多い選手はいない、アメリカ、コロラド州のボルダー標高2800から3000メートルでの高地トレーニングは過酷な拷問状態に近い練習だった。それらを高橋は、何も疑うこともせずに愚直にこなし続けた。そして、高橋は小出同様、オリンピック二連覇の夢を見た。

2003年11月16日、オリンピック二連覇の野望を抱いて、アテネ五輪の代表権をかけ、高橋は東京国際女子マラソンを走った。しかし、このレースは、高橋の一途な手を抜く事をしない性格、あえて言えば、小出の教えを妄信したことが災いした。

高橋の肉体がオーバートレーニングの結果、余力を失いレースの後半失速となって現れ、2時間27分21秒で2位に終わり、アテネ五輪の代表権を逃すことになるのだった。

レース後、小出は「レースの前に、もう一つ餅を喰わせておけばよかった」とコメントするのだが、餅を一つ喰わせておけば失速しなかったなどという、非科学的な言葉に同意することなどできない。欲望の膨張が、練習量の膨張に繋がり、高橋のエネルギーを消耗させたのだ。

参考記事:「クレージー・ランニング」が生んだ万引きマラソンランナー 原裕美子が苦しんだ過酷な体重制限