「福島イジメに我慢できず」福島第一原発で除染作業を志願…ある九州男児の決意

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 九州出身の島村太郎さん(仮名、20代後半)は、福島県で仕事をすることになった。東日本大震災にともなう、東京電力・福島第一原子力発電所の事故による、除染作業員になるためだ。地元から福島県に向かう途中で、東京に立ち寄った際、島村さんは私のインタビューに応じた。千キロ以上も離れた九州の人からすれば、「東京に行くことさえ、被曝の危険がある」と思っている人もいる。しかし島村さんは「放射線は心配ない」と言う。除染作業をする決意を聞いた。

 九州出身の島村さんは東京まで飛行機でやってきた。深夜のバスで福島県に向かうという。数時間東京に滞在するが、その時間に新宿某所で話を聞くことができた。

 島村さんが働く条件は、契約社員で給料は月額33万~40万円ほどだ。一日の実労時間は8時間。1年間働くという。だが、雨の日は休みのため、その分が引かれてしまう。これまではアルバイトなどで生活をしてきた島村さんが、九州で仕事を探すとすると、正社員で30万円代の給料という条件は厳しいものがある。

 福島県で働きたいと思ったのは、震災後からだった。

「本当は、2011年か12年には(福島県に)原発作業員として行こうとは思っていたんです。しかし、物理的な距離が遠かったので、踏ん切りがつかなかったんです」 

 では、働く動機はなんだったのだろうか。

「福島の風評被害が嫌だったんです。実際に、被曝が理由で亡くなった人はいない。福島いじめはムカつくんです」

 島村さんが福島県に対する思いは、震災前からあったという。島村さんは中学の頃から合唱をやっていた。高校の時は部長で、九州大会にも出たことがある。合唱を志すものとしては、合唱王国とよばれる福島県には親近感があった。そのため、福島県のために何かをしたいという気持ちが出ていたという。

 それにしても、現状を投げ打って、親近感はあるとはいえ、土地勘の全くない福島県で除染作業員として働くのは不安はないのだろうか。

「不安は……、寒いってことですかね。それと人間関係。どんな人が働いているのかは気になります。原発事故とか、放射能への不安はないです。被曝が理由で亡くなった人はいれば、行かなかったかもしれないですがね」

 実は、島村さんはこれをきっかけに、人生の逆転を考えている。九州ではコールセンターで契約社員として働き、月10万円ほどの給料だった。大学を中退して、無職生活が続いていたなかで、ハローワークの職業訓練をした上で見つけた仕事だった。地元にいても冴えない人生で、職場と自宅の往復だった。

「そんな生活はつまらないし、生きがいもない。このまま地元で死ぬのを待つのか? と思うと嫌なんです」 

 小学校のときは、ふとしたきっかけでいじめにあっていた。仮病で何度も学校を休んだ。「死にたい」とさえ思ったという。

「包丁を使って死のう、と考えたこともあったんですが、行動には移さなかった。そうした気持ちは誰にも言えなかったし、言うのは恥ずかしいとさえ思っていたんです」

 中学・高校では平凡な生活を送り、「大学に行けば楽しいことが待っている」と思っていた。高校は進学校だったが、周囲の友だちが一流大学に進んでいたが、島村さん自身は二回浪人としても、平凡な地方の国立大学しか合格しなかった。それでも、新しい人生が始まると思っていた。寮費の安いことが魅力で、寮生活をすることになるが、そこでの生活はしごきそのものだった。

「小学校のときほどではなかったんですが、最後まではなじめなかった。なじまなかったということが正しいかもしれません。理不尽なことばかりだったし。だから、大学自体が居心地が悪くなったんです」

 結局、休学して、地元に帰った。それでも何もしないよりはいいと思い、寮を出て、アパートで生活を始めた。しかし、留年をしたことで他の学生との年齢差がより開いたために、なじめなかったという。そのため、2011年に大学を中退することを決意。引っ越し作業中に、東日本大震災があった。 

「こっちでも揺れました。偉いことになったと思いました。ネットカフェに行って情報を集めようと思ったんですが、そのネットカフェが海岸沿いにあり、『津波注意報が出た』とのことで追い出されたんです」

 地元に帰った島村さんが、しばらく無職だった。高校時代の友人のなかには医者になったり、大手企業に勤めている人もいる。そうした日常をFacebookで見ると、凹んだりしていた。だからこそ、今でも付き合いのある友人はいない。自分から切ったという。

「大学を中退したので、ばつが悪いんです。何をやっているんだろう。このままどうなっていくのだろうか。『消えたい』と思ったこともありますが、死ぬのは恐い。やり直したいと思ったんです」

 そんなときに東京に遊びに来たことがある。合唱のつながりで出来た友だちに会いにきたりした。楽しかった。そのため、東京に来れば何かが変わると思ったようだ。

「大学はドロップアウトしたし、無職のときは周囲からプレッシャーを感じていました。そんなときに東京に来て、住みたいと思ったんです。それにはお金を貯めないといけない。いまは人生のやり直し。本当にがんばらないといけない。旧友に今の自分を見せられないし、会いたくない。見せられるようになってから会いたい」

 この記事が掲載されるころには福島県双葉郡のどこかで除染作業をしていることだろう。福島県のためと、今後の自分の人生を変えるために、除染作業員になることを選んだ。一年後、島村さんは貯金もでき、東京に住むことになるのだろうか。人生を変えるための一歩が始まった。

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Written by 渋井哲也

Photo by Official Marine Corps photo by Lance Cpl. Garry J. Welch

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