惚れられの夜 「ラブホテルのドアが開いた瞬間、ギャと叫んだような、いや恐ろしくて声も出なかったような…」|川奈まり子の奇譚蒐集三四

「いい部屋じゃない?」と、Aさんは、凍りつく佐々木さんを尻目に、とっとと部屋の中に入ってしまった。

男の身体を擦り抜けて。

「Aさん!」

「なあに? あぁ、冷房きいてて気持ちいい! ……服、脱いじゃおうかなぁ」

Aさんは躍るような足取りでベッドの方へ向かい、男の肩越しに佐々木さんに熱い視線を投げ、ますます大胆に挑発しはじめた。

「どうしたの? 早く来て! 私、Mなんで、焦らされるとたまらなくなっちゃうのよ?」

「それどころじゃない! 逃げないと!」

「なんで?」

「いいから!」

佐々木さんはAさんを連れ戻すために、黒いポロシャツの男の横をすり抜けて、部屋に入った。

背後でドアが閉まる。その音が、死刑宣告の音かのように恐ろしく感じられ、思わず振り返った。

その結果、玄関の男の顔を見てしまった。平凡な造作で、ぼんやりと床を見つめているが、息をしているようではなかった。

微動だにしないのだ。まるで静止画のようだ。

「ねえ、こっちを見て」

Aさんの甘い声にハッと振り向く、と、今度は、早くも下着姿になったAさんの姿と、玄関からは死角になっていた浴室のようすがいっぺんに目に飛び込んできた。

浴室の壁がガラス張りになっており、バスタブから血塗れの手首がだらりと垂れさがっている。

バスタブは真っ赤な液体で満たされていた。青白い顔をした初老の男がその縁に後頭部を乗せて白目を剥いて死んでいた。

そしてAさんは……その体は……。