惚れられの夜 「ラブホテルのドアが開いた瞬間、ギャと叫んだような、いや恐ろしくて声も出なかったような…」|川奈まり子の奇譚蒐集三四

「こんな私で、ごめんなさい」

彼女は、大小の古傷に全身を覆われていた。手首にある無数のリストカットの痕を見て、そう言えば彼女がいつも――今日も、ついさっきまで――長袖を着ていたことに佐々木さんは気がついた。

「醜い私を許して! 好きなようにしていいから! ね、お願い!」

「だからそんな場合じゃないって!」

「傷があるから嫌いになったの?」

そう言って涙ぐむのを見て、Aさんには玄関の男だけではなく浴室の惨状も見えていないのだと彼は悟った。

「そうじゃない! とにかく、行こう!」

力づくで服を着せて連れ出そうとすると、Aさんはヒステリックに泣きじゃくった。しかし、かわいそうだと思う心の余裕はもはや無い。

どれも自分でつけたように見える、彼女の傷痕。

浴槽で死んでいる男。

黒いポロシャツの男も、まだ玄関に突っ立っている。

まだ正気でいられる方が不思議なくらいだった。

部屋からAさんを引きずり出してエレベーターに乗ろうとすると、そこにいた先客は、例の男女だ。……またしても壁を向いている。

佐々木さんは構わずエレベーターに乗り込み、1階のボタンを押した。

「なんでなの? 説明してよ!」とAさんが泣き喚いた。

「後でするから! ほら、着いた! 降りて!」

駐車場まで連れてくるとAさんはようやく大人しくなり、佐々木さんの車に自分から乗り込み、それから自宅に送るまで無言だった。

佐々木さんに、さっきのラブホテルで何があったのか、説明を求めることもなかった。

帰宅後、佐々木さんは高熱を発して、しばらく寝込んでしまったそうだ。