惚れられの夜 「ラブホテルのドアが開いた瞬間、ギャと叫んだような、いや恐ろしくて声も出なかったような…」|川奈まり子の奇譚蒐集三四

「わっ!」

反射的に佐々木さんは叫んで、後ろに飛び退った。

さっき池のほとりで見た男女だった。……ありえないことだ。それにまた、こちらに尻を向け、壁の方を向いて立っているというのも、異様だ。

しかも、彼らはエレベーターから降りる兆しがなかった。

「どうしたの? 行きましょ?」

Aさんの明るい声で、佐々木さんは我に返った。パニックに陥りかけていたのだ。

「えっ?」

彼は目を剥いてAさんの顔を見つめた。Aさんはキョトンとしている。

「なあに? 早くぅ!」

と、彼女は彼の腕を掴んだ。

想定外に強い力でエレベーターに引き込まれると、逃げる間もなく扉が閉まった。すぐに上昇が始まる。

佐々木さんは、異常な男女の方を見ないようにして堪えた。

――Aさんの目には彼らの姿が映らないのだろうか? 普通は怖がると思うのだが、それとも、よほど激しく性欲に駆られているのだろうか。

実際、Aさんは驚くほど情熱的な態度を取った。エレベーターの中でも彼に手足を絡みつかせてきた。脚の付け根を太腿にこすりつけられて、彼はたじろいた。

……ふだんの淑女然とした態度からは想像がつかない豹変ぶりだ。

やがてエレベーターが停止して扉が開くと、佐々木さんは彼女に完全にリードされて、もつれあいながら廊下にまろびでた。

手足を絡め取られ、よろめきつつ部屋の前までくると、「貸して」と鍵を奪われた。

そして部屋のドアが開き……その瞬間、佐々木さんはギャッと悲鳴をあげたような気もするが、実際には驚きのあまり声も出せなかったのかもしれないと私に述べた。

とにかく彼は酷く驚愕した。

なぜなら、後ろを向いた男が部屋の玄関に立ち塞がっていたので。

太り気味で、黒いポロシャツの裾をチノクロスのパンツのベルトに窮屈そうに突っ込んだ、猫背の背中が丸く、髪を刈り上げた男が。

今、借りたばかりの、誰もいないはずのラブホテルの部屋に。

それなのに……。