惚れられの夜 「ラブホテルのドアが開いた瞬間、ギャと叫んだような、いや恐ろしくて声も出なかったような…」|川奈まり子の奇譚蒐集三四

そこは、多摩川沿いのワンドだった。川の本流に接続しているので、厳密にいえば池ではないが、あたかも池のような体を成した、天然のビオトープだ。

昼間なら、緑豊かな水辺の光景が広がり、釣客が糸を垂らしているのだろう。

しかしそろそろ零時も過ぎようかという深夜だ。

水面は真っ暗、水辺には年輩の一組の男女がひっそりと肩を並べて佇んでいるだけだった。

夫婦だろうか。2人とも、佐々木さんが子どもだった時分に見かけたような服装をしていた。つまり70年代風のファッションで、それでいてお洒落でやっている感じはしない。時代遅れなくたびれた印象で、痛々しかった。

2人して首をうなだれて池の面を見つめたまま、石像のようにじっとしている。

すぐそばにラブホテルが2軒並んで建っていた。あそこの客だろうか、と、なんとなく思っていると、

「そこは、どう?」とAさんが、2軒のうちの片方を指差しながら二の腕に胸を押し付けてきた。瑞々しい弾力に惹かれて、心の針が一気に欲望サイドに傾いた。

 

そのラブホテルに足を踏み入れると、黴臭さが鼻をついた。フロントの辺りだけかと思ったら、廊下に歩を進めても臭う。

「なんか臭くない?」と、佐々木さんはAさんに訊ねた。今なら払い戻しがきく。気になるなら隣のホテルに移ってもいいと思ったのだが、Aさんは「そう?」と何も気にしていないようすを見せた。

ただ、うきうきした表情で、腕を絡めてきただけだ。

佐々木さんは、そんなAさんを見て、こういうことになったのは間違いではなかったのだと考えたのだが。

 

チーン。

 

やや古い機種のエレベーターの音が廊下に鳴り響き、扉が開いた。と、その中に、佐々木さんたちに背中を向けて、年輩の男女が立っているではないか。見間違えようがない、特徴的なその服装。