惚れられの夜 「ラブホテルのドアが開いた瞬間、ギャと叫んだような、いや恐ろしくて声も出なかったような…」|川奈まり子の奇譚蒐集三四
だいたい2年ぐらい前の夏のこと。
当時、佐々木さんの店に熱心に通う女性がいた。これがAさんで、彼女は次第に来店の頻度を高め、訪れる度に長居するようになった。
佐々木さんの占いの館は雑貨店を兼ねているだけではなく、片隅にカフェ・コーナーまで備えていて、従業員の女の子を雇っていたから、占いや買い物が済んだ後にお茶をしてのんびりすることも可能だ。
と言っても、2時間も3時間も居座る客は、Aさんの他にはいなかった。しかし幸いAさんは、客寄せに貢献しそうな上品な外見の持ち主だった。佐々木さんの仕事を邪魔したためしもない。
だから佐々木さんは彼女をいつも歓迎し、好きなだけ店にいさせた。
結果的に2人は、毎日のように長時間、同じ空間を共有することとなった。
Aさんの歳の頃は35、6歳。若くはないが、貰った名刺によれば名の知れた出版社に勤務しており、ファッションセンスにも立ち振る舞いにも知性が漂っていた。しかも容貌が整っているとあって、非の打ちようがない。
当初、佐々木さんは用心深く、顧客と恋愛関係に陥ることはプロとして厳に慎まなければいけないと肝に銘じていたのだが……独身でそのときはたまたま恋人がいなかったということが言い訳になるとは彼自身、考えていなかった……が、しかし。
夏の盛り、涼やかな衣装をまとったAさんは、ことのほか美しかったのだ。
また、その晩は熱帯夜で、陽が落ちても客足が伸びず、2人で会話する機会がいつもより多かった。
閉店の時刻となり、従業員の女性はさっさと帰り支度を始めた。一方、Aさんは立ち去りがたそうに佐々木さんの方へチラチラと視線を向けてくる。それを、秋波、と、解釈した佐々木さんを、いったい誰が責められるだろう。
「ご自宅まで車で送りましょうか?」
うっかり、そんな台詞が口をついて出てしまったことについては、恋の重力現象とでも呼ぶべきか。自然落下した彼に対して、Aさんは、しっとりと伏し目になって応えた。
「お言葉に甘えてもよろしいんですか。ご迷惑じゃありません?」
その声も表情も実に色っぽく、たちまち佐々木さんの頭の中にはピンクの霧が垂れこめた。本能に導かれ、彼はAさんに近づいて、抱き寄せんがために両手を伸ばした。
トスン!