自称天才編集者・箕輪厚介氏だけではない 1990年代編集者は「俺たちが文化を作ってきた」感があった|中川淳一郎

「『今回取材した○○さん、言ってることがつまらないので、ナシで。新しい人見つけといて』と平然と言う」「『ライターは編集者が言われたことをやればいいんだよ。こっちが忙しいから代わりにやってもらってるってだけなんで。オレの方が仕事はできるので、その手足となっているだけってことを忘れるなよ』と平然と言う」といったことはあったな。

2つ目に関しては、そもそも「○○さんを取材して」と言ったのはお前だろ! と思うし、こちらは○○さんに謝罪をしなくてはいけないし、新しい取材相手を急遽見つけなくてはいけない。下請けってそういうもんだな、という扱いを受け続けてきた。だったら自分がやるべきは何かといえば、商売の上流に位置した場合、同様のことを行うのではなく、その「ゴーマンの連鎖」を自分のところで止めることである。かくして私はエラソーな編集者を反面教師に低姿勢な編集者を長年やり続けている。

ちょっと、他人のことを書こうと思ったらオレのことでもけっこうあるじゃねーか。よし、自分自身のことを書いてみる。

もっとも思い出すのが某大手出版社が2001年、911テロの後に「乗るしかない、このイスラムブームに!」とばかりにイスラム教に関するムックを急遽編集することとなった時のこと。

私は急遽駆り出されたのだが、完全に便利屋扱いとなった。元々仲介者からは「1ページ3万円はもらえるんじゃないかな」と言われたのだが、自分が担当した8ページの合計ギャラは6万4000円。しかも朝日新聞まで何度も写真を買いに行かされ、その分のギャラはゼロ。現場の編集者がつくわけでもなければ、自分でラフ(設計図のようなもの)を作るし、デザイナーへの指示も行う。時給は480円ほどだった。

しかも、クソみたいな扱いを受ける。元々その本は著名な教授が「監修」として入り、各著者はページごとに「文/○○」となるはずだった。だが、そこは一切なく、そのムック辞退がこの教授が「著者」ということになっていた。中を開けると有名な著者のみ「文/○○」となり、この教授が「監修」をしたことになっていた。私のような無名フリーライターが書いたものは、その教授が書いたことになっていた。

全体的にこの時担当したKという男は「小狡い」「小賢しい」「小金持ち」といった形で「小」が似合うセコい男だったが、クソ編集者について書いているといくらでも出てくるのでここらで一旦やめておく。(文◎中川淳一郎 連載『俺の平成史』)

 

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