「この人」が存命だったらどんな政権批判をしていたのか 竹中労の伝説 権力に本気で牙をむいた反体制ルポライター

かつて、権威に刃向かう反体制の物書きには、喧嘩自慢がたくさんいました。「ケンカの竹中」と異名を取った無頼のルポライター、竹中労はその代表的な存在でしょう。水道橋博士や武田砂鉄なども自ら熱心な竹中読者だと公言しているように、いまだに一部でカリスマ視されている存在です。あだ名からして、さぞや激しい喧嘩屋だったのだろうと思わせられます。

よく知られているのは、1975年に新宿コマ劇場で行われたシンポジウムで、竹中労が「政界の暴れん坊」ハマコーこと浜田幸一を挑発、それに応じたハマコーとあわや喧嘩になりかけたというエピソード。これについて竹中労は後年、「つかみ合いを演じたハマコーには、ちょい親近感がある」と漏らしています。

映画と古本のミニコミを発行するフリー編集者のFさんに聞きました。

「僕は労さんの実際の喧嘩は見たことがないんですが、70年代に労さんの若い衆として行動を共にしていた人の話では、とにかく恫喝する声の迫力が凄まじくて、気迫で圧倒する喧嘩だって言ってましたね。たしかに僕も、80年代後半、ある勉強会で労さんが当時の『朝日ジャーナル』編集長だった伊藤正孝さんの若干失礼な質問に対して、凄まじい啖呵を切るシーンを見ています」

なるほど。でもそれでは、「ケンカの竹中」とは口喧嘩の凄みを表す異名でしかなくなってしまうような。

「いや、実際に強かったと思いますよ。70年代の労さんの写真を見ると、往年の悪役プロレスラーのディック・ザ・ブルーザーみたいな体をしてる。そういえば、労さんは力道山とも喧嘩になりかけたらしいんです」

ええっ!? それはあり得ないでしょう。戦後を代表するプロレスラーで、不意打ちとは言え木村政彦を圧倒した力道山に勝ったとなれば、これは物書き最強どころか、日本最強になってしまいます。

「これは労さん自身がプロレスについてのエッセイで書いてるんですが、『ラテンクォーター』で若き日の労さんと勝新が飲んでたら、挨拶に来ないという感じで力道山がイライラしていた。それを見て、さすがの強気の勝新も『どうしよう』と不安顔。労さんは『気にしなさんな』と勝新をいなして、『そのとき私は、場合によってはやってもいいと胆を決めていた』とか書くわけです。労さんが言うには、『喧嘩は度胸の問題であって、体格や格闘技経験とは、紙一重に関係ない。いきなり睾丸を蹴上げるなり、ビール瓶で頭をカチ割るなりすれば、必ず勝つ』と」

喧嘩屋ならではの言葉という気はしますが、しかし相手は力道山ですからね。その場はどう収まったのでしょう。

 

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