第一次被害で人命が失われていたかも知れなかった福島第一原発事故 「自分の呼吸音と周囲のアラーム音しかなかった」(爆発から逃げる作業員)

当時の民主党関係者が「第一被害は避けられた」と言い訳っぽく話していましたが、とんでもない。このレポートを読むと一次被害は奇跡的に避けられた、と言ってよいでしょう。

僕が驚愕したのは14日の3号機の爆発時の様子です。これは「マサさん」らが「命拾ったな」と言うように正に間一髪で未曾有の危機を避けられた、「偶然」(「マサさん」らにとっては不幸中の幸い)でした。

本サイトと朝日新聞で掲載されたように9年前、朝日新聞奥山俊宏記者(現・編集委員)と僕は福島第一原発事故に遭い「フクシマ・フィフティー」と同様に避難せずその場にとどまった「もう一人のフクシマ・フィフティー」とも言うべき作業員の「マサさん」のインタビューを試みました。

奥山記者とは15年以上前、歌舞伎町・ゴールデン街で知り合い、常々その仕事ぶりはリスペクトしていました。司馬遼太郎賞や日本記者クラブ賞を受賞する前の事です。

僕は僕で別ルートで、福島県・双葉郡、「原発の街に生まれ、原発の街で育ち、原発に勤め、原発事故に遭った」作業員の若者たちの話を聞いて『原発アウトロー青春白書』(大洋図書)という本を上梓しました。彼らは事故直後、避難するのですが、別ルートで踏みとどまった作業員「マサさん」の話を聞く事になりました。

東京で奥山記者に話したところ、興味を持ち(確か、東京大学工学部で原子力工学を専攻していたはず)一緒にインタビューをしに福島県いわき市に行きましょうという運びとなりました。電源喪失する中、「マサさん」らがどのように「闘った」のかは本サイトが連載した記事(記事末のURL参照)をお読み頂ければと思います。「マサさん」の仕事の都合上、9年前に取材したこの話は出せずにいました。が、ここに来て環境も変わり発表する事ができました。

奥山さんが「この話は10年後でも出すべきです」と言ったのを覚えています。いつも冷静な奥山さんの熱意を僕は感じたので「そこまでの話なのか」と再確認しました。奥山さんは原子力の専門家と言ってよい記者です。
というより、調査報道のプロ中のプロです。その人が言うのなら、是非10年経っても出したいと思うようになりました。

 

■「音的なものは自分の呼吸音と。マスクしてるんで。自分の呼吸音とまわりのアラームの音しかなかった」(爆発から逃げる途中)

僕が驚いたのは3号機爆発の時の模様です。6話をまとめてみます(文末のURLで全部読めるようになっています)。

 

奥山:3号が爆発する恐れがあるっていうこともご存じなかった?

マサ:わかんないです。あれねぇ、東電の賠償になんか足してくれないかなとか思ってて。そんなとこに行かされたぼくらは(笑)。

奥山:そうですよね。しかも、知らされもせずに。

マサ:冗談じゃねぇなと思って。

奥山:自衛隊の人がケガして、なんにも知らされてなかった、ということで。

マサ:自衛隊の人もいましたし。3号の爆発のときには、ぼくら、それから、メーカーの人、それから、自衛隊は注水やってた人、それぞれいて。逃げるルートは同じとこなんで、みんなで一斉にいろんな人がそこのところを、2号と3号のあいだのガレキの上をみんなで走って逃げて。

奥山:それは、しばらく収まるまでどれくらいの時間を置いたんですか?

マサ:あのときドカーンといったあと逃げて、「なんなんだ」って外を見たときに真っ茶色になってたんですけど、ちょっと様子を見てるうちに、あのとき風が強かったんで、フワーッとなんにもなくなったんですよ。きれいになって。で、誰が言ったかわかんないですけど、「今だ!」っていう声が聞こえて、一斉にそこから逃げた。

奥山:その2号と3号のあいだにほこりがワーッともやってたのが、風で?

マサ:そうです、たぶん消えたと思うんです。ぼくらは大物搬入口しか見えてないですけど、なくなったんで、「今だ!」って誰かが言ったので、そこから屋外のガレキに。

奥山:2号と3号のあいだを走ったわけですか?

マサ:走った。たしかに、そのときには何もなかったですね、ほこりもなにも。きれいな感じでしたね。いい天気だったんですよ。覚えてます。全然、目の前はガレキだらけだったけど、ほこりとかは一切なかったです。そこをとにかく走って逃げるばっかりで。

奥山:3号の建屋は見ました?