黙っているのはなにも考えていないわけじゃないことをわざわざ説明するなんてうんざりする|成宮アイコ

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なにも思わなかったの? の裏側に見えるもの

日々の報告をするような日常会話がどうもうまくできないので、自分の気持ちや考えていることを、瞬発的に言葉にすることが苦手です。だからこうして文章を書いているのですが、瞬発力を良しとする文化もあるようで、ときどきこんなことを言われます。

「なにも思わなかったの?」

戦後最大級と言われた殺人事件のニュースのときも同じでした。わたしが人生の糧にしている「アイドル」業界で事件がおこったときも、MeTooタグも、不謹慎なドラマも。思っていること、感じたことを、どこにも、なにも書かないことなんてたくさんあります。
誰か特定の人物について、特定の出来事について考えるときに、いくつ補足をいれても気持ちの説明には足りないような気がするからです。思ったことがありすぎてなにも言えないことだってあるのです。

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もちろん、発言をしないからといって、なにも考えていないわけでもなにも感じないわけはありません。
サーティーワンアイスクリームの新しいフレーバーの話をしながらさっき見た人質解放のニュースのことを考えていたり、真面目な顔でパソコンにむかいながら夜のおやつにじゃがりことロールバームのどっちを買おうか考えていたり、いいアイディアを思いついたら大きな電球が頭の右上にピカっと点滅するわけもないし、「これはのちに重要な意味を持つということなど今の成宮には知る由もないのだった」なんていうナレーションが流れるわけでもありません。
人の内面は見えません。当然、なにも思っていないわけはないのです。

そうしてなにも書かずにいたら、「なにも思わなかったの?」と言われることが何度かあり、ぎょっとしました。その言葉には、「なにも言わないなんてがっかりだよ」という本音が見えたからです。

黙っていると加担したことになるルールでは困る

大きな事件があったときに、リアルタイムで何かを言うあるいはSNSに書くことをあまりしないのは、なにかを言わなくてはいけない/批判をしなくてはけない雰囲気に飲まれて、勢いで加勢したくないからです。人を傷つけることに無自覚になってしまいそうだから。
それに、わたしは(そしてあなたは)ニュースサイトでも速報でもないただの人間なので、やはり吐露をするならば正確にしたいと思ってしまいます。

というのも、前に、自分と家庭環境が似た加害者の事件について、「犯罪を犯した人の気持ちもわかる」と書いたら「気持ちがわかるってどういうことですか? ひどいと思わないんですか?」とコメントがついてブロックをされたことがあったからです。
「犯罪者の気持ちがわかる」の1行だけを抜き出され、即時アウト扱い・発言権なしこそアウトじゃないのかなと思い、「ブロックされています」の事務的な文字に悲しい気持ちになりました。

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それに、そのテキストは「犯罪者の気持ちがわかる」という内容ではなかったのです。

「犯罪者の気持ちがわかる」からこそ「それは絶対に選んではいけないのだ」。そんな1文でした。しかし、目に付くセンセーショナルな部分だけを抜き出してしまったら意味が変わってしまう。ニュースサイトでも同じです。「え…そこだけクローズアップする? そしたら意味違くない?」と思わざるをえない悪意をついうっかり信じてしまう。だから、最後まで聞きたいなと思っています。本人の言葉で。わたしが信じるのはそこだけにしたい。

もしかして、この連載だけを見ると、わたしは物申したがる人に見えたりするかもしれませんが、鬱のときには理不尽なことをされても怒る気力はないし、目の前で困っている人がいてもとても声をかけられずスルーしてしまうし、明日いつもの時間に起きて仕事に行くということですらあやうい、社会問題に対しても「なんでも大丈夫です、もうどうでもいいです」という状態になってしまいます。人にはいろいろな事情があり、目に見え、耳で聞こえることだけが全てではありません。それなのに、黙っているからって肯定をしている側にふくめられてしまうのは困ります。

逆に、ありまるほど元気なときでも、黙って何も言わないからって何も考えていないんわけじゃないことをわざわざ説明しないといけないなんて、うんざりです。

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正義は人を傷つけてもいい権利ではない

一時期連発された芸能人の不倫ニュースも同じです。
もちろん気持ちの中では、「うわ、サイテー」とか「まじかよ、好きな映画にはキャスティングされないでほしい」と思うくらいのドン引きもしますが、それはその瞬間の個人的感情なので、怒りのまま書き殴ったり、本人に嫌がらせのコメントを送ったりはしません。自分が過去にまったく後ろめたくない恋愛だけをしてきたのかと聞かれたら言葉につまりますし、わたしは外野で、知り合いでもなければ当事者でもないからです。

(さすがに友人がひどいどろ沼恋愛をしていて、LINEをさらされたり誹謗中傷されるような自体に陥ってしまっていたら声をかけますし、不条理なことには声をあらげて怒ってしまうとは思いますが…。)

自分の正義からはみでた人がいても、傷つけてもいい権利を得たわけではないということ。そんな簡単なことを、感情にふりまわされがちなわたしたちはときどきそれを忘れてしまいます。誰かを傷つけてもいい(それもフルボッコに)権利なんて、この世の中にはないのです。

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声をあげる日も、声をあげられない日も、生活は同じく尊いものであってほしい

「闘う君の唄を闘わない奴等が笑うだろう」有名な歌詞です。当然、そういった冷笑はしたくありません。だけど逆もまた思います。

もちろん、声をあげる人の否定をする気持ちは少しもありません。声をあげる、大事なことであり、素晴らしいことです。わたしもできるときは声をあげるほうでいたいと思っています。
だからこそ、自分が声をあげることができたとき、声をあげない人のことを笑ったりはしたくないのです。だってそれは自分かもしれないからです。それぞれわたしたちは、いつどちらの側になるかわからない。だから、それぞれの人生や生活は、誤差なくちゃんと等しく尊いものであってほしい。

そういえば小学校のころ、わたしの作文を読んだ先生から、「成宮さんの文章は息継ぎができないね」と言われたことを急に思い出しました。いまだに、こんなにぎゅうぎゅうに想いだけをつめこんでしまう。先生ごめんなさい、大人になっても全然変わりませんでした。でもわたしは、こうやって日常に使う普通の言葉で、いつまでも終わらないような話しをしていたいのです。

対話で解決することばかりだなんて、思ってはいないけれど。それでも。

(成宮アイコ・連載『傷つかない人間なんていると思うなよ』第二十七回)

文◎成宮アイコ

https://twitter.com/aico_narumiya
赤い紙に書いた詩や短歌を読み捨てていく朗読詩人。
朗読ライブが『スーパーニュース』や『朝日新聞』に取り上げられ全国で興行。
生きづらさや社会問題に対する赤裸々な言動により
たびたびネット上のコンテンツを削除されるが絶対に黙らないでいようと決めている。
2017年9月「あなたとわたしのドキュメンタリー」(書肆侃侃房)刊行。
EX大衆、Rooftopでもコラム連載中。