「論破カッケー」の弊害 論争ではなく「言い負かせただけ」の印象操作

「論破カッケー問題」の話の初めてとして、ひろゆきさんという著名人を出しましたが、問題は論破をする側でなく「論破カッケー」と言う側にある思っています。

これは今に始まった事ではなく、ニコ生が全盛期の10年ちょっと前、論破生主というのが出現しました。彼らは、配信している一般人の生主に「論破、いいすか」とスカイプで口喧嘩をふっかけるというものでした。YouTube全盛の現在、「論破」という文字のサムネをデカくして動画をアップしている人が散見されますが、ニコ生時代の既視感を抱かせるだけで特に目新しいものでもありません。

それより以前の紙媒体時代には、雑誌に書いたものに対して、別の雑誌で反論をするというものがスタンダードでした。特に月刊誌「噂の真相」では読者投稿欄で結構シビアな論議が行われていました。現在の「論破ブーム」に直接影響を及ぼしてはいないものの「噂の真相」の読者投稿欄はネットの先駆けのように見受けられます。

ところで、今だと論争は

「かんだら負け」
「言い間違いをしたら負け」
「口ごもったら負け」
「即レスしなければ負け」

というように、喋りがいかに上手いか問題にずらされています。紙媒体なら書き間違えたら消して訂正済の原稿を出せば良い訳で、滑舌などは関係ありません。因みに論破生主たちは段々と、ラップのようになっていき実際、ラッブバトルの原型を見ているかのような場面もありました。そして、相手が口ごもったら「あれ?言えないの? 反論できないの?」と畳み込み「ハイ論破ー!」と言って相手の生主の配信から去っていくというものが多かったです。
YouTubeの視聴者の中でも、「論破カッケー」風潮は続いています。続いています。が、よく聞いているとざっと以下のように見えます。

1・言い負かしているだけなのに「論争」に勝っているように見える。なぜか。

2・「早口・甲高い声・まくし立てる」。これによって論破しているように見える。反対に滑舌が悪いけれど正しい事を言っている人が「論破で負けた」ように見える。

3・本来、その人の意見が正しいあるいは世の中に対して有用なのに論破されたら間違っているかのようなイメージになってしまう。

4・論点ずらしを巧妙にした人が勝っているかのように見える。あるいは極端な例を出して問い詰める。そして言いごもる人を責め立てる。本来、議論は正しいか正しくないかで判断すべき。
例・最近、炎上したメンタリストDaiGo氏のように「税金をたくさん納めているのだから生活保護の人々に自分が助けている」→論点は差別だったはず。論点ずらしの分かりやい例。

5・知識が豊富な人は見ている人にとってはそれだけで、論争が得意なように見える。が、知識がなくても論理上、正しい事を言っている場合もある。

6・「頭、悪いんじゃないですか」
「嘘つかないでください」
「質問に答えてもらっていいですか」
など、攻撃的な言葉を多用・常用する。普段、こういった言葉に言われなれない人は当然とまどう。そしてこういった言葉は「攻めている」ように「見える」。ただ答えなくても良い。黙ってしまう。が、それだと論破されたように見える・

7・結論から言えば、現在の「論破カッケー」は「印象操作」である。

以上、あえて「見える」という言葉を繰り返してみました。そう、「見える」だけなのです。「見える」とはすなわち印象操作。この要素が非常に強いのが現代版「論争」です。「論破カッケー」の正体はこんなものだと見ています。あまり、良くない状況です。
反対に、口ごもり、さほど博識でない人がいたとします。物事をゆっくりと良く考え咀嚼するので論争には向かない人です。そして、絞り出す一言の方がずっと、世の中の人に役立つ事がある人がいたとします。僕はペラペラ軽口を飛ばす人より、後者に着目したいですし、その人に教えを請うでしょう。

思い出されるのが僕と同年代の某週刊誌記者です。彼は20代の頃、口下手で、腰が異様に低く、ペコペコし過ぎなので小バカにする同業者もいました。僕はそういう彼が面白いので、たまに原稿を頼んだりしていました。ある日、「なぜそんなにペコペコするのか」「なぜそんなに言い負かされる(論破)のか」と聞いたところ、涼しい顔をして言いました。

「だって頭下げるの、タダじゃないですか」

感心しました。勉強させて頂きました。同年代の彼に。今でも週刊誌記者として活躍していますが、後に某ノンフィクション賞を受賞しました。論破されようがされまいが、彼の生き方のほうが僕は好みです。

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本当に論破したか、論争に勝ったのか。それはその場で判断できないものもあるのです。すなわち後世の人が「あの論争って本当は負けたと思われた人が正しいのではないか」。そんな評価を下す可能性だってあり得るでしょう。
アウトローの社会では掛け合い(例・「おいこら」と掛け合いをする事)の事を「場面」と言う時があります。場面で勝てば、アウトローの場合は「勝ち」です。貫禄勝ち、迫力勝ちもあるでしょう。ただ、我々一般人は「場面」を制しても「勝ち」ではありません。今の「論破カッケー問題」は「場面を制する」と重なっているように見えますが、くれぐれも我々は一般人である事を忘れないように。

ふと、現在のメディアの情況を見まわしてみると「論破が強い」(印象操作が上手い)コメンテーターを番組のご意見番的位置に据えているようです。橋下徹さんや三浦瑠麗さんやひろゆきさんら、です。……この並びを見ていると無言になってしまいますね。僕の場合、チャンネルをそっと変えます。

最後に偏見を承知で言うと、甲高い声で滑舌よく淀みなく、ビジネス・商売のことを語りまくる人達、特にYouTuberには無条件で黄色信号を鳴らす事にしています。(文@久田将義)