円山応挙: 日本絵画の破壊と創造 (別冊太陽 日本のこころ)より
円山応挙は1733年に生まれ、少年の頃に京都の高級玩具商に弟子入りし、当時人気があった覗きからくりに用いる眼鏡絵の制作に従事する中で、遠近法と写生を学んだ。
覗きからくりは、覗機関または覗き眼鏡とも呼ばれ、字が表す通り機械的な仕組みを要するレンズを用いた玩具だった。とはいえ、その仕掛けはシンプルで、遠近法を用いて描かれた写実的な風景画を凸レンズ越しに眺めることで、臨場感を楽しむというもの。
雄大な山々や船が集う港湾、異国の都市のパノラマを視覚的に体感するものと言ったら、昨今ならVRが真っ先に思い浮かぶ。
18世紀半ばの頃には、今のVRのように覗きからくりが新奇で物珍しく、富裕層から庶民まで人気を博したのだ。
覗きからくりには眼鏡絵と呼ばれる専用の風景画が欠かせなかった。初め、円山応挙は玩具商のもとで、この眼鏡絵の作家として名をあげた。
そしてその後、写実表現と遠近法を取り入れた画風で、無名の玩具絵師から18世紀京都画壇のスターダムにのし上がり、円山派の始祖となるに至った。
そんな応挙であるが、21世紀の今現在、応挙と聞いて一般の人が何を思い浮かべるかというと、彼が得意とした風景画や動植物の絵よりも先に、幽霊画なのではあるまいか?
――幽霊画といえば応挙。
「足の無い幽霊を発明したのは円山応挙という絵師だった」という俗説が有名だからか、1994年に公開された映画『居酒屋ゆうれい』に応挙の幽霊画の掛け軸が出てきたからか、原因は定かではないが、応挙と幽霊画をセットにする固定概念が世間に出来あがっているわけである。
ちなみに、応挙以前の元禄時代にも、浄瑠璃絵などに足の無い幽霊が描かれていた。だから応挙は、幽霊に足を描かない習慣を日本に定着させたに過ぎないのかもしれない。
さらにちなみに、応挙の代表的な幽霊画は三幅あり、青森県弘前市の久渡寺、アメリカのカルフォルニア大学バークレー校、東京都谷中の全勝庵が、それぞれ一幅ずつ所蔵している。
この三幅の絵は、どれも構図が同じで、そこに描かれた幽霊の容姿も並べてみなければ見分けがつかないほどよく似ている。
しかしながら、このうち応挙の款記(書画が自作であることを示す姓名や年月など)と落款があるのはバークレー校にあるものだけで、国内にあるに作品にはどちらも無いため、「伝円山応挙作」と称されている(※1)。
「伝円山応挙作」とは、円山応挙が作者だと伝えられているという意味。不確かなのである。本当は応挙の作品を模写した贋物かもしれない。
応挙はなぜか自筆の作品に落款や款記などを記さないことが多かったようだ。
応挙は数多くの幽霊画を描いたそうだが、絶対確実に真筆とされている作品については「無い」と断言する研究者もいる(※2)。
応挙の幽霊画はこんなにも有名なのに、信じるか信じないかはあなた次第というありさまで、それこそまるで幽霊のような話だ。
落款・款記が無くとも、由緒書きや言い伝えで作画から所蔵に至る経緯が本当らしければ応挙の作品として世に受け容れられている――この状況から予想できると思うが、円山応挙の幽霊画には贋作が多い。
オークションで落札した贋作
「インターネットのオークションサイトで1万円で落札した円山応挙の掛け軸のせいで、とんでもない目に遭いました」
ある日、私のFacebookにこんなメッセージが寄せられた。
1万円で応挙の真筆が買えるわけがない。それ以前に、真筆の可能性がある「伝円山応挙作」の幽霊画がネットのオークションに出品されたらマスコミが飛びついてすぐに話題になるであろう。
贋作に決まっていると思いながら、ネタ日照りにつき、すぐに電話インタビューを申し込み、「とんでもない目」の顛末を聴いた。
40代の自営業者、志村大輔さんは、若い頃からタトゥーアーティストを志し、31歳のとき某地方都市の繁華街でタトゥースタジオを経営しはじめた。
タトゥーというのは、つまり刺青のことだが、志村さんが手懸けるのは電動のタトゥーマシーンを使ったいわゆる洋彫りであり、ヤクザの刺青とは趣が違う。
この手のタトゥーはミュージシャンやファッションに敏感な若者に愛好者が多いので、志村さんは最初、タトゥースタジオの内装も彼らに好まれそうなダークなロックテイストで統一した。
近年タトゥーに対する法規制が検討され、賛否が議論される社会的状況があるが、これは2004年のことであり、当時、ロックミュージシャンやバイカー風のタトゥーは、若者の風俗として地方都市にも少しずつ愛好者が増えつつあった。
勤めていたタトゥースタジオから独立するにあたり、志村さんは当初、東京に進出することも考えたが、ライバルのいない地方都市を選んだのが正解だったと見えて、経営の滑り出しは非常に順調だったという。
――あの幽霊画に出遭ってしまうまでは。
タトゥーアーティストとして志村さんは絵画全般に関心があり、それなりに知識もあった。本格的な刺青とは違うが、和風のモチーフを取り入れたタトゥーを好む客も珍しくないから、浮世絵をはじめとした日本美術の教養も深めるように努めてきた。
もともと、子どもの頃から絵は描くだけでなく、見るのも好きだった。
だから、開店から半年もして、ほんの少し懐に余裕が出来てくると、自分の城を絵で飾りたくなったのだ。
それも、こだわりとセンスを感じさせる、ありきたりではない絵で。
しかし、もちろん予算には限度がある。手頃な値段で手に入れば、それに越したことはない。そもそも、いくらぐらいするものなのか、相場を知りたい。
そこで志村さんは、インターネットのオークションサイトを見てみることにした。オークションサイトでは、過去に出品された絵画の落札価格などを調べることもできる。どんな絵がいくらぐらいで取引きされるものなのか、おおよそ見当がつくようになるのではないか......。
手始めに、店のパソコンで国内最大のオークションサイトを覗いてみた。サイト内で品物を検索できるようになっていたので、「絵画」「美術」「インテリア」などのキーワードを検索ボックスに打ち込んだ。
すると、絵画や美術品などが画面に表示され、そのいちばん上にあったのが、「円山応挙の幽霊画」だった。出品者を見ると、日本の工芸品などを取り扱う古美術商だと称している。
絵の方は、典型的な幽霊画だと思えた――足が無く、白い死装束を着て、髪を振り乱した女を描いた日本画だから。
女といっても、口を半開きにして鉄漿(おはぐろ)をした前歯を見せた老女の幽霊だ。
志村さんも、代表的な応挙の幽霊画は知っていた。弘前市の久遠寺とかいうお寺が持っている《返魂香之図》は、画集で何度も眺めた。うっとりするほど美しい女の上半身が繊細なタッチで描かれていた。あんな綺麗な女だったら、それはもう反魂香でも何でも使って、彼の世から呼び戻したくもなるだろう......。
あれとこの絵の幽霊は、だいぶ異なる。
幽霊の姿だけではない。画風もタッチも似ても似つかない。
応挙についても幽霊画についても、志村さんは日本画の研究者や美術商のように詳しいわけではないが、一目で「ニセモノだろう」と直感した。......にもかかわらず、この幽霊画の女と目が合ったように感じた途端、どうしてもこれを手に入れないと気がすまなくなってしまったのだという。
「魅入られたとしか言い表しようがないのですが、とにかく欲しくてたまらなくなって、即座に1万円を入札しました」
「そんなに素晴らしい絵だったんですか?」
「......なんとも言えません。ご自分の目で確かめてみたらいかがですか?」
「見ることが出来るのですか?」
「はい。そのときのオークションサイトには《円山応挙の幽霊画》としか書かれていませんでしたが、ずっと後になってたまたま《朱い塚(あかいつか)》というサイトで同じ絵を見つけて、そこには《枕返しの幽霊》と書かれていました。《朱い塚》に今でも載っているはずです」(※3)
誰がなんの目的で?
《朱い塚》は、今でこそ数多い心霊スポットなどを紹介するサイトの草分けで、私は同サイトの管理人・塚本守さんと面識があった。
まずは《朱い塚》に《枕返しの幽霊》が載っているのを確認した。すると、すぐにオリジナルの絵が何であるかわかってしまったので、その辺のことも書き添えつつ、この絵を入手した経緯と動機をメールで塚本さんに問い合わせてみた。
そうしたところ、塚本さんから以下のような返信を頂戴した。
〖川奈様 お世話になっております、塚本です。
私が持っている《枕返しの幽霊》の掛け軸ですが、川奈さんがおっしゃるとおり、あれは栃木県の禅寺・黒羽山大雄寺にある《枕返しの幽霊》の模写の、さらに写しです。《應挙》という款記と落款があります。
私はこの掛け軸を2001年頃にXオークションで購入しました。当時は心霊物をコレクションしはじめたばかりで、二点目に入手した幽霊画がこの掛け軸でした。
購入当時はボロボロで、4年前に修復しております。数年前にXオークションで全く同じ掛け軸が出品されていたのを見かけたので、今、川奈さんが取材されている体験者の方は、それを買われたのではないかと思うのですが、如何でしょう?〗
......志村さんが絵を買ったのは2004年だから、この塚本さんの推理は間違っていると思う。
しかし、この後、志村さんと塚本さん、それぞれからさらに詳しく電話で話を聞いたところ、塚本さんが「全く同じ掛け軸」をXオークションで見たのと恐らく同じ時期に、志村さんが買った件の幽霊画がXオークションに出品されたらしいということが判明した。
さらに、志村さんが手に入れた幽霊画も掛け軸であり、落札した時点ですでにかなり傷んでいたということ、塚本さんも1万円前後で古美術商を名乗る出品者から落札したということも、わかってしまった。
「塚本さん、私が思うに、大雄寺の《枕返しの幽霊》の模写の精巧なプリントに応挙の款記と落款を付けたものをたくさん作って、売っている人がいるんじゃないでしょうか?」
「僕もそう思います。絵画や印刷技術に詳しい人にあれを見てもらったことがあるんですが、よく出来たプリントだと言われました」
「大雄寺所蔵のオリジナルの方は、読みは同じオウキョでも円山応挙ではなく、古柳園鶯居(こりゅうえん・おうきょ)という絵師が描いたもので、画風も応挙とは全然違うし、よくもまあ、《應挙》なんてもっともらしい款記を記して売ったものだと呆れます」
「......でも......しかしですよ? 僕はあの絵を手に入れてから急に体調が悪くなってしまって、おまけに家人まで病気になり、なんだかあの絵のせいのような気がしたので、ほとんど10年近くしまいこんでいたんですよ。引っ張り出してきたのが4年前で、そのとき修復に出しました。修復後は何も起きていませんが、僕が落札する以前、この掛け軸は百物語の演出に使われたことがあって、そのときに怪異が起きたという話を聞いています」
「明らかな贋物で、しかも巧妙だとはいえ印刷された絵なのに、霊障めいたことが起きるというのは不思議ですね。私が取材している方も、絵を手に入れてから大変なトラブルに立てつづけて見舞われたそうですよ。一方、オリジナルの大雄寺所蔵の掛け軸は、怪異が起きるとは言っても......」
「ほのぼのしたものですよね! あの絵の前で寝ると朝には頭と足の向きが逆になっている、いわゆる枕返しが起きるというだけですから。妖怪の枕返しと同じで、罪がない、悪戯みたいな怪異です」
こんな会話を塚本さんと交わしながら、私はふと、怖いことを想像した。
贋物《枕返しの幽霊》は意図的に傷めて古色をつけた印刷物。何枚でも作ることが可能だ。何十、何百というそれらすべてに、持ち主に災いを引き起こす呪いがかけられていたとしたら......? (つづく)
(※1)「お雪の幻」を含む応挙の代表作三幅の幽霊は幻想的で儚く、美しい。アメリカのバークレー校が所蔵している円山応挙の幽霊画には「お雪の幻」という画題が描き込まれており、由緒書きも付いている。それによると、お雪は若くして亡くなった応挙の愛妾で、死して後、幾晩も応挙の夢枕に立った。そこで応挙は悲しみつつ、生前のお雪の面影を画布の上に留めたということだ。
(※2)田中圭子著『うらめしい絵 日本美術に見る怨恨の競演』p15-p16を参照
この他に、小松和彦編『怪異の民俗学6 幽霊』、東京藝術大学大学美術館編『うらめしや~、冥途のみやげ』展カタログ、女子美術大学芸術学部芸術学科...松尾妙子・面出和子『眼鏡絵 の視点について』(https://www.jstage.jst.go.jp/article/jsgs1967/37/Supplement1/37_Supplement1_65/_pdf/-char/ja)、曹洞宗黒羽山大雄寺ホームページより倉澤良裕「一口法話...幽霊とお化けの違い(茶筅供養から)」、東雅夫監修『日本魔界伝説地図』、黒猫の究美 -浮世絵談義 虎之巻-「応挙の幽霊画。虚実一体型の反魂香図」(https://blogs.yahoo.co.jp/mishima_doo/19504473.html)
等、多くの資料を参照しました。
(※3)今回、《朱い塚》の管理人・塚本守さんにご協力を賜りました。
《朱い塚》https://www.youtube.com/watch?v=-cuiP6Ljtko&feature=youtu.be
《應挙》の款記と落款が確認できる塚本さん所蔵の『枕返しの幽霊』の映像はコチラ→https://www.youtube.com/watch?v=-cuiP6Ljtko&feature=youtu.be
この絵にまつわる本当にあった怖い話『幽霊の掛け軸』http://scary.jp/kowai/1/7.php
後編につづく:幽霊画の祟り(後編) 「背中にしがみつく、お歯黒の女」|川奈まり子の奇譚蒐集二一
【関連記事】
●子どもたちの前に現れた『キューピッドさん』からのメッセージ|川奈まり子の奇譚蒐集十七
●『ひだる神』 通りすがりのあの場所で現れた黒い物体|川奈まり子の奇譚蒐集十五
●南青山住民の私は児童相談所設立に賛成します 南青山は寛容な街|川奈まり子