新元号「令和」に違和感を持ちながらも好意的である日本人のなぜ そこに込められた菅原道真の影
平成31年4月1日午前、新元号「令和」が発表された。ネット上でもさまざまな感想や意見が飛び交ったが、往々にして違和感を持ちながらも好意的な反応が多かったように思う。元号を選定した有識者や政府がどういった意図を持っていたかは、知るよしもないが、それを受け取った日本人の感覚にどう作用するかを、歴史から考えてみる。
違和感の根源
まず違和感について。令和という触れたことのない言葉に実感が伴わないので、違和感を持って当然だというのは言うまでもない。ここに「日本人と言葉」という観点を加えると、違和感の根底にあるものがわずかに見えてくる。
日本人は近くは文明開化や敗戦で、欧米から大きな波として流入した英語を、単に英語としてだけでなくカタカナを駆使して、日本語の”中に”取り込んだ。また古くは奈良時代に遡り、仏教の伝来とともに入ってきた中国語も外国の言葉として切り離さず、漢字を使いながら日本語の中に飲み込んでいる。
このように日本人はずっと、外から来たものを飲み込んでしまう文化を持っているため、現在の日本語は世界でも類を見ないほどに、外国由来のものが日本語化して言葉の中に紛れ込んでいる。
そうした外国からの影響を大きく受ける以前のプリミティブな日本の言葉を「大和言葉」というが、この日本固有の大和言葉には、実は語頭が「ら行」のことばは存在しない。
つまり、現在使われているら行で始まる言葉は全て外からやって来た言葉である。令和という言葉に対して抱いた違和感の根元のひとつは、私たちの中に流れる原初的な日本人の感覚からくる「ら行始まり」の言葉に対するものだと思われる。