「見ていた人こそ当事者だ」と思った日のことを「バイバイ、ヴァンプ!」の記事コメントで思い出した|成宮アイコ

「見ている側こそ当事者だ」と思った日のこと

 

まずは、すこし自分自身のできごとを振り返ってみます。

わたしはもともと人より地声がだいぶ高いことがコンプレックスなので、それをおもしろおかしく指摘されたり、時間を埋めるために適当にかわかわれたりすることが嫌です。ましてや、「成宮に触られたら高い声が感染する」と言われたらすごくつらい。

「そのひとに噛まれたら高い声が感染する」なんて映画ができたら、きっともう声なんて出したくない。ときには、「それは個性だよ」と簡単に言われてしまうこともある声/自分で変えられない持って生まれたものは、根深く、簡単には触れられたくない部分なのです。

以前、トークイベントで似たようなことを経験しました。

わたしが喋った途端、わざと高い声で真似をされたのです。「やめてくださいよ」と言ったのですが、びっくりしすぎてきっとわたしは笑顔だったと思います。傷ついた反動で、人は衝動的に笑顔を浮かべてしまうから不思議です。

悪意をぶつけられても瞬発的にはそれを言い表せない。

だって、まず傷ついてしまうから。

あのとき、わたしはその状況をただ見ている人のことをとても恨めしく思いました。家に帰ってひとりになってから、見ているだけだった人や、一緒になって笑っていた人の顔を思い出します。

笑い出してしまいそうなほど冷酷な気持ちになって、あの場所にいた人の表情を振りかえって思ったことがあります。

 

わたしにとっては見ている側こそあの出来事の「当事者」でした。

 

その当事者たちのことを、とても憎いと思ったこともよく覚えています。正直に言うと、たくさん時間がたってもあの日の気持ちが消えないからです。