「私を見つけて!」 横山ゆかりちゃん失踪事件 未解決にしてはいけない(最終回)

 国道354号線もその一つだった。県内だけでなく、県外からも大勢人がやってきては、すぐに出ていった。また北関東では有数の歓楽街も市内にはあった。キャバクラやフィリピンパブ、ピンサロなどの風俗店が何十軒も市内に軒を並べていた。快楽を求める大勢の男たちが、周辺の町々から太田市にやってきた。

003.jpg国道の反対側はこのような住宅街

 そんな現象の中心にパチンコ店は存在していた。
 また、太田市はこれまで3回、急激な人口増加の波を受けた街でもあった。このため、太田市は全部で4つの住民の層から成る街となってしまい、それが事件捜査を難しくする要因の一つになってしまったかもしれない。

 簡単に太田市の歴史を振り返ってみよう。
 太田市は古くから栄えた街だった。鎌倉末期には、新田義貞がこの地に現れた。江戸時代にも北部の金山を中心に古い町並みが栄える事となった。この町のスタイルは大正時代まで続く。
 しかし、昭和に入ると、最初の激動が訪れる事となる。1917(大正6)年にこの地に移転してきた。「中島飛行場」が昭和5〜6年頃から大ブレイクしていくのだ。満州事変(1931)が起こり、太平洋戦争の荒波へと突入していく激動の時代の中で、軍需産業は花形産業となった。「九七式戦闘機」、一式戦「隼」などを作り出した中島飛行機は日本の軍用機の三分の一を生産する大企業へと短期間のうちに成長していったのである。

 中島飛行機のおひざ元にある太田町の人口は、それまでの6,000人前後から昭和10年には1万人を突破。昭和19年には60,000人近くに達した。短期間で人口は10倍近くに増えたのだ。そのほとんどは中島飛行機で働くために新たに流入してきた人々だった。彼らは旧市街地の周辺に次々と新しい町を形成していった。

 敗戦後、中島飛行場が所有していた工場や飛行場はアメリカ軍が接収し、第77軍政本部が置かれた。以後、1958(昭和33)年まで太田市は駐留軍の町となり、米兵相手のバーやキャバレーなどが数多く立ち並び、風紀は大いに乱れた。その名義が、今の大きな歓楽街へとつながっている。

 米軍が撤収した頃から、日本は高度成長期の時代を迎え、ここで太田市にも第二の波が訪れた。中島飛行機は富士重工(スバル)と名前を変え、スクーターや軽乗用車のメーカーとして復活。また三洋電機の基幹工場も建設され、太田市の人口は昭和46年には10万人を突破。以後も着実に増え続けることとなる。
 この頃、流入してきた人たちが住み始めたのが、市の周辺部だった。この頃から事件の起きた高林地区など周辺部の開発が積極的に始まったのである。 

 そして、昭和60年代から平成にかけて第三の大きな波が太田市にやってくる。外国人労働者の波だ。いわゆる3K労働に日本人が従事したがらなくなった為に、大量の外国人労働者が流入し始めたのだ。工場労働者を中心に外国人労働者の数は爆発的に増えた。
 昭和57年にはわずか480人に過ぎなかった外国人の数は、平成2年には1486人、平成7年には4427人、平成12年には6740人と激増している。今や市の人口の約20人に一人が外国人ということになる。
 当初はパキスタンやイランなどからの資格外国人労働者も多かったが、その後は日系人に対するビザの供与が緩和されたために、大勢の日系人が中南米からやってくることとなった。

004.jpegパチンコ店は国道の面していた。犯人逃走経路か

 また、歓楽街で働くフィリピン人女性などの数も多い。このため、太田市内に居住する外国人の国籍はバラエティーに富むこととなった。平成12年6月で何と52か国籍の人々が居住しているのである。