チャーハンが無性に食べたくて、チャーハン付きチャーハンを注文した僕に見えた世界 もはやこれは「食べる哲学」だ in京都

そうして二つのチャーハンを食べ進めていく。三角食べをしてみたり、片方にだけ紅生姜を乗せてみたり。

 

 

そんなことをしたって、目の前にあるのは永遠に「単なる2つのチャーハン」でしかない。そうして食べ進めるうちに、ある感情が湧き上がってきた。「これにはもしかして、何か隠れた哲学があるんじゃないか」。「2つにする意味がない」と一蹴するのは簡単だ。けれど、このメニューが続いているということはきっと何かのメタファーが込められているはずだ。

 

人間は、2つのチャーハンを前にすると思想をはじめる。しかしその答えは、どんなに食べすすめたところで出てこない。そこにはただ、2つのチャーハンがあるだけだ。そもそも、どっちが単品のチャーハンで、どっちがセットとしてついてきたチャーハンなんだろう。

 

フェルマーの最終定理は360年間ものあいだ解かれなかった。解けてしまえば、この世界の全てのことがわかってしまう真理だとまでいわれた。さらに、人間は「生きる意味」についても解けない哲学をぐるぐると回り続けている。もしこれが解けてしまって、生きる意味は「ない」と証明された時、人類は最終戦争を始めてしまうかもしれないとまでいわれている。

フェルマーの最終定理や、生きる意味に匹敵するのが、この「2つのチャーハン」である。思想はとまらない。

京都には「哲学の道」という場所がある、それ以上に哲学させられるのが、ここチャーミングチャーハンだった。(文◎Mr.tsubaking 連載『どうした!?ウォーカー』第61回

 

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