華原朋美にまた異変が 事務所クビにシンママ子育て 悪い結末しか想像できない… 子供の本当の父親の情報も掴んだ

まさに華原朋美の黄金期に、よく取材をしていたという芸能ライターのSさんもこう証言します。

「何回現場を共にしたのか忘れてしまうほど、朋ちゃんとは頻繁に会っていました。彼女は常に不安定で、猛烈に明るい日もあれば、大泣きして現場に入ることもありました。いわゆる躁鬱状態です。睡眠薬や向精神薬が手放せず、そのせいで情動面に著しい影響が出ていました。それなのに、周りのスタッフは止めもしないで一緒になって笑ったり、囃し立てていたのを覚えてます。なんというか、彼女を取り巻く人間達も異様なテンションでちょっと怖かったです。当時、彼女の取材をよくしていた関係者なら〝あれか!〟となると思いますが、朋ちゃんは男性スタッフのイチモツを握って回るのが好きでした。初めて見た時は妙にご機嫌だなぁと笑ってみていたのですが、次に会った時も、また次の時も必ずそれをやる。とにかく必ず男性スタッフの元へバタバタと近づいてはギュッと握ってワーイ!と歓声をあげる。なにか深い闇を見た気持ちでした」(芸能ライター)

1994年、華原朋美の運命の時計が動き出しました。当時、アシスタントとして出演していた番組でヒットチューンを次々と紡ぎ出す小室哲哉氏と出会います。よほどタイプの女の子だったのか、小室氏は歌手として彼女を世に送り出します。そしてあっという間にミリオンを達成し、テレビやCM、広告媒体で活躍の場を広げていきました。ライターのSさんが続けます。

「小室さんと出会うまでの彼女は、パッとしないタレントでした。華原朋美という芸名にたどり着くまで2度の改名をし、小室哲哉のT.Kにあやかり同じイニシャルに。そう、一心同体という意味があったのです。しかし、人気絶頂だった1998年冬、公私共にラブラブだった二人に別れが訪れます。所属事務所も小室さんのところからプロダクション尾木預かりへ。その頃から本格的な奇行が目立ち始めました。お菓子のように薬を食べ、意識をコントロールできなくなってしまった。そしてとうとう自殺未遂まで起こしてしまったのです」(前同)

仕事に穴を開け、連絡が取れなくなることもしばしば。そしてプロダクション尾木から2007年、一回目の契約解除通告を食らいます。

「生きてるのが不思議なほどですよ」と、当時を振り返るレコード会社関係者。

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