ツイッター社は新機能「フリート」よりも差別表現の規制を何とかすべき|久田将義
反論権という言葉があります。これを大マスコミは忘れているのではないでしょうか。
「書かれた側も書かれる」のです。僕は常にそう覚悟して雑誌を作ってきました。だが僕のような中小出版社ではなく、いわゆるマスコミである新聞・テレビ・週刊誌の多くは自分たちが名前を挙げられて、批判されるのを恐れ、大組織に守られてきました。
しかし、批判された側がそれに対して反論するのは当然ではないでしょうか。個人情報保護法が国会に提出されメディア人の中で議論になりました。出版クラブで外国人記者を招いて記者会見を開きました。フランスのジャーナリストが同様の事を言っていました。
「日本のマスコミは反論権を無視している」と。その通りだと思います。
ある媒体で何かを書かれたとします。それに対して「反論記事」を見た事がありますか? かつてはありました。現在はまず見ません。
なぜでしょうか。これは僕は「驕り」だと思います。本来、権力を監視すべき立場の組織が力を持ち、「第四の権力」と呼ばれ、大手の場合、普通の会社員の2倍ほどの給料もらってしまう状況。普通の「企業」と変わらなくなってしまった感があります。
が、ツイッターでは140字という制限があるため、なかなか議論・論争には向かないでしょう。とは言え、誹謗中傷、脅迫、名誉棄損、強要などなど、未だに「言論の自由」の本質。すなわち、「素晴らしさと怖さ」の両面を持ち合わせている事を認識していない人が多すぎると思います。
これを啓蒙するのは難しく、条例や法令に違反した人間には厳罰に処する事で「迂闊に書いてはいけない」という世論形成を作る事が大事でしょう。(文◎久田将義)