福島第一原発事故 10年目で出て来た新事実 「フクシマ・フィフティー」のアナザーストーリー 第2回(インタビュアー│奥山俊宏、久田将義)
奥山:そのあと重要免震棟に行くわけですか。
マサ:11日の午後2時何分に(地震が)あって、そのままホントは「帰れる人は帰っていいよ」っていう話があったんですけど、ぼくらも当然、そういうことがあれば、このあと「復旧やらなきゃいけないね」っていうのがあるんで。会社としても、ある程度の人数は残さなきゃいけないし。指示があったというか、そのときに全、構内から全部の人たちが出ていこうとしてるんで、渋滞でどうしようもないんです。だから、「そんなにあわてて出なくてもいいんじゃない?」って思ってて。きっと復旧っていう話にもなるし。ぼくもそれを「関係ない」って言える立場ではないんで。「とりあえずちょっと様子見て」って言ってるうちに、やっぱりお客さんのほうから「これから復旧やらなきゃいけないんで、とりあえずある程度の人数と、仕事ができる作業員をちょっと残してくんねぇか。連絡がとれるようにしてくれねぇか」っていう話になったんで、そう言われちゃうと帰れないですよね。
奥山:「お客さん」というのは東電ですよね。
マサ:そうです。
奥山:それは当日(3月11日)の夕方?
マサ:そうです、4時、5時ぐらいですね。
■11日夜、中央制御室に照明を仮設
【彼によれば、2011年3月11日午後に震災が発生した当初は「今夜徹夜すれば帰れるかな」というような気持ちだったという。しかし、津波被害は彼の認識よりはるかに深刻だった。
2012年2月15日にいわき市内の居酒屋で久田氏のインタビューを受けた際、彼は、前年3月11日の夕方から夜にかけての出来事について次のように振り返った。】
久田:11日は避難されたんですか?
マサ:いや、避難してないです、そのまま。そうこうしてるうちに、お客さんから、東京電力から「対応しなきゃいけないから、待っててくれ」という連絡がきて。そうすると、うちの会社として、誰が残るか、何人残るかっていうのを、所長をはじめ。そういう話がくるのはわかってたんで。
久田:復旧作業っていうことですか?
マサ:そうそうそう、これだけの地震だったから、絶対どっかイカれてるんで。それに対しての復旧作業は絶対あるな、と。
久田:その時点でメルトダウンとか考えられました?
マサ:全然考えてないです。だってもう、「今夜徹夜すれば帰れるな」ぐらいの気持ちですもん、気持ち的には。やっぱりそこで津波を想定してないですからね。地震でガチャガチャになっちゃっただけだなと思ってるから。
久田:一番デカいのはやっぱり津波ですか。
マサ:そのあと津波が来て、電源全部ダメっていうふうになったあとですよね。
久田:46分から30分とかそのぐらい後に津波が来て、これはヤバい、みたいな感じになった。
マサ:それから、でも、「待機しててくれ」っていうことで、それが4時ぐらいで、で、実際に動き出したのは夜7時とか、たぶんそのくらいの時間なんです。ずっと待機してて。それまでいっぱい電話、連絡がかかってきて、「バッテリーはねぇか?」とか、「発電機はないか?」とか、「ケーブルはないか?」とか、そういうのがうちの会社にどのぐらいあるのかを調べてて。そういうのでずっと、それをやってて。実際に動き出したのは、その日の夜7時ぐらいに一番最初の、その、向こうから来た依頼が、各その中央制御室の電気が全部消えちゃったんで、それの……。
久田:津波で?
マサ:そうです。電源もそのときに全部なくなっちゃってるので。とりあえず中操が、中央制御室が明るくないと、どうにもならないんで、まずその照明を生かしてよと。
久田:中央制御室が真っ暗だった?
マサ:そう、真っ暗なんで、仮設でとりあえず生かしてくれっていうことで。
久田:その真っ暗をなんとかしろっていう作業をされた?
マサ:そうです。
久田:それは夜7時過ぎぐらい?
マサ:たぶん夜7時くらいか、そのぐらいだったと思うんですけどねぇ。
久田:その時点では津波が来てるわけじゃないですか。13メートルとか10メートルとか言われてるわけですけども、そこで電力が全部止まってしまったので、それによって、これは地震じゃ済まないな、みたいな認識はお持ちだったんですか?
マサ:そうですよ。その時点では「電源どこも生きてないよ」っていう話で、「中操、全部電気消えてるよ」っていう話はもう来ていたんで。
久田:そうすると、放射線とかがどうなるのかなとか、そこまでは考えてなかったですか?
マサ:そこまでは考えてないですね。
久田:これは3月11日の夜の話ですよね。
マサ:そうですね。
久田:中央制御室って別に電気が戻ったわけではないですよね。