福島第一原発事故 10年目で出て来た新事実 「フクシマ・フィフティー」のアナザーストーリー 第2回(インタビュアー│奥山俊宏、久田将義)

マサ:戻ってないです。仮設でエンジン発電機。エンジン発電機を外に置いて、で、そこからケーブルを引っ張って中央制御室に照明をつけて。エンジン回して。

久田:それは○○工業とかA社さんとか、みなさんでやられたんですか?

マサ:うちだけですね、それは。

久田:そのときに残られたのは、東電のかたとあと何人ぐらいいらっしゃったんですか?

マサ:ぼくらは、何人いたかなぁ、当初。うちの社員が10人ぐらい。で、うちの協力企業の人が10人ぐらいかなぁ。

久田:11日から退避命令が出る15日まではどういう作業をされてたんですか?

マサ:11日の夜に中央制御室の電気をつけにいって、でもう、その日の夜遅くに周辺の放射線量が上がってるんで、「みんな自分の事務所にいないで、免震棟に集まってくれ」っていうことで、各業者の残ってる人全員。

久田:そのときは600人ぐらいですか?

マサ:そのときはもっといたと思います。だって事務員の人も女の人もいたし。逃げ遅れたというか、帰れなかった人たちが。

久田:免震棟というのはマグニチュード10ぐらいでも大丈夫と言われています。柏崎の勉強を経てという感じで。そのときは線量とか考えたことありました?

マサ:だから線量が上がってるって言われて。それまでは全然意識なくて。「上がってる」と言われて免震棟に集まれって言われたんで、そうなのかっていう。

久田:電力のほうから、「線量が上がってる」と。

マサ:そうです。周辺線量が上がってるんで。

久田:免震棟って結構デカいわけですね。

マサ:デカいんだけど、2階建ての事務所なんだけど、そのときは廊下から階段から全部人がいるような感じで。空いてるところにはすべて人がいるような状況。

久田:700人ぐらい?

マサ:いや、700じゃ足りないと思います。

久田:では1000人ぐらい。

震災直後の小高、浪江町。

マサ:たぶんそのときは。で、15日までにどんどんどんどん減っていくんですよ、保守に関係ない人たちが。東電がバスを用意して、随時退避させてって。

久田:事務員とか女性とかを。

マサ:はい、関係ない人を。

久田:1000人くらい免震棟にいたのが750人くらいになった?

マサ:たぶんそうですね、ずっとみんな帰してたから。

久田:それは3月15日ぐらいですかね。

マサ:3月11日の晩にその仕事を一個やって、その日はそれしかなかったんです、うちやることは。

久田:で、泊まったところは免震棟?

マサ:そう、免震棟です。で、何ごともなくというか。そのまま次の日の朝に、今度は「1号機のほうにいってくれ」と。(次回に続く)

〈インタビュアー@奥山俊宏(朝日新聞編集委員) 文責・写真@久田将義〉

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