謎の未解決事件 「板橋区資産家放火殺人事件」現場を歩く 犯人は日中混成犯罪集団か

といったエピソードを吹聴していたようです。が、誰にでも話していた訳でなく、また瀬田さんの行動範囲もあくまで自宅周辺、自宅から一番近い繁華街の池袋などでも飲む事はなかったので、こういった話(「情報」と置き換えても良い)を訊いた関係者はある程度絞られていた模様です。そして、本書は犯人グループの全貌に迫っていきます。

果たして、現場はどのようになっているでしょうか。本書には「森の中の家」と瀬田さんの自宅は称されていました。森のような広大でうっそうと茂った木々の中に瀬田さんの家は建っていたのです。

東京で言えば、大田区田園調布、千代田区麹町、渋谷区南平台、松濤などの高級住宅街には豪邸が並んでいるばかりなので大きな家と言えどさほど、目立ちません。が、板橋区のどちらかと言えば庶民的な住宅街の中に瀬田家のように大きな敷地があれば、街の住民はその存在は認識していた事でしょう。

場所は川越街道を下り右折します。車通りが多かった川越街道からとたんに、庶民的な街並みに店が並び、板橋区の風景を作り出していきます。

川越街道を下っていくと現場(撮影・編集部)

この辺りに「森の中の家」があったら相当目立つでしょう。前記の田園調布、麹町、南平台、松濤などと違って。とは言え、相続税対策のため現在では瀬田家の豪邸はなく国にいったん買い取られ、そこから一軒家が立ち並ぶ一角に変貌していました。
新しい家々の中を歩いていると、古い家も見つけました。新興住宅街ではなく江戸時代は下板橋村と称され、広大な田畑だった地域です。江戸時代から明治時代かけての地主の名残りでしょう。

板橋区、豊島区、練馬区、北区など東京都北部にはこういった古くからの地主が住んでいるであろう、お屋敷がたまに見られます。また西部に属する世田谷区も瀬田家のように「自宅から駅まで自分の土地」という口伝は世田谷にも残っており、記憶では戦後の代表的な東京ヤクザとして名を馳せた「素手ゴロの天才」花形敬の実家も自分の土地が駅まで続いていたと言われていたと、『疵 花形敬とその時代』(本田靖春著 文春文庫)に記してあったと思います。ある種、地主を表す象徴としての表現かも知れません。