ネット言論はどうあるべきか 「言論の自由とは何か」を考えてみた 言論の自由の向こう側には暴力が存在する
これは書く側の問題が大きいと考えています。新聞、テレビは巨大になり過ぎました(最近は売り上げが右肩下がりだとは言え)。こんな事を思い出しました。かつて「個人情報保護法に反対するアピールの会」というフリーライター、版元の編集者らが横断的に作った会がありました。僕も末席を汚していました。かれこれ15年以上前の事です。
そこで、海外の新聞社などを入れた記者会見を神楽坂の日本出版クラブ会館で催しました。記者らから「アピールする会」の面々(僕も隅っこで座っていました。取材される側は初めてでした)に質問があるのですが、未だに印象に残っている質問がありました。確か、フランスの新聞だったと思います。
「日本では反論を掲載しないのはなぜでしょうか」といった主旨でした。
ここは重要なポイントです。本来、言論の自由とは極論を言えば「何を書いても良い」。その代わりに「何を書かれても(反論されても)良い」というのが大原則なはずです。
が、新聞・テレビはおろか大手出版社の媒体は反論文を掲載しなくなりました。たまに「遺憾に思います」といった定型文を電話口で言うか手紙を送るくらいです。僕が実際にそういった態度を取られました。本来は、そこで論争が起こり、議論を戦わせているうちに本来のイシューが読者に形として見えてくるはずなのです。これが「言論の自由」の本質の一部であります。マスコミと化した大手媒体のツケが回ってきたと思います。墓穴を掘ったのかも知れません。
しかし、そういった論争はここしばらく大手媒体では見かけません。中小の出版社では見る事がありますが。つまり新聞やテレビのカウンターメディアとしての雑誌社が巨大になり過ぎ、雑誌社自体も新聞、テレビと同じ巨大メディア(マスコミ)枠に組み込まれてしまいました。言論の自由をアピールするのなら反論権も同時に保障しなければならないはず。